メッセージ050918 小 石 泉
心を備えよ
アメリカのハリケーン、カトリーナによってニューオーリーンズは大きな被害を受けました。私は今回の災害に対して、今まで味わったことのない、特別な感慨を持ちました。それはニューオーリーンズがいわゆるバイブルベルトと呼ばれるアメリカの信仰の厚い地帯だったからです。ニューオーリーンズだけでも何千と言う教会が水浸しになりました。ある有名な巨大な教会も全く使えなくなりました。多くの教会は信徒たちもばらばらに避難し、牧師は礼拝も出来ず、経済的にも困窮し、援助の食事で飢えをしのぐ状態です。水が引くと多くの人々が死体となって発見されました。中には消防署に「助けて、屋根裏部屋にいるの、もう水がのどまで来ているの・・・」と叫びながら死んでいった母と子たちもいたということです。老人ホームで見捨てられて死んだ34人の動けない老人たちも、“敬虔なクリスチャン”だったことでしょう。
私は私自身の中にも、クリスチャンは大丈夫、災害に会わない、守られるという漠然とした期待があったことをいまさらながら発見しました。もちろん災害の中で守られた、救われたと言う証はしばしば耳にしてきましたが、私たちが絶対に災害に会わないという保証はありません。そして最近のように多くの災害がある時、私たちは災害に会うことへの心の備えをしなければならないと思います。誰も、大丈夫です、神様は守ってくださいます、あなたは絶対に災害には会いません、とは言えないのですから。
確かに、聖書には私たちが特別な守りの中にあると言う多くの御言葉があります。
神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。詩篇46:1〜3(口語訳)
主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。18:16
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。32:6
神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。69:1〜2(口語訳)
大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。69:15
私は、今まではこれらの言葉は象徴的な、詩的な言葉と受け取っていましたが、今、読むと、何とリアリティがあることか。そして災害に会わないというのではなく、その中で救われるという形を見ます。
「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。
「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。124:1〜8
この御言葉は自然災害よりは人間の敵による災厄のように思われますが、守りと言う意味では同じでしょう。
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。詩篇50:15
確かに私たちには特別な神の守りはあるのです。しかし、常に安全無事と言うことではありません。クリスチャンの車が道を走るとき信号は全て青になるわけではないのです。
クリスチャンでも苦難はあり、その中から救われるのです。
このような自然災害ではなく、人工的な災害もこれからは頻繁に起こるでしょう。これからの時代は今までとは違います。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。Tテサロニケ5:2〜10
今は終わりの日です。次の御言葉がなんと切迫して感じられることか。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(中略)
いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。マタイ24:3 〜42
何かが急速に変わり始めています。アメリカのデルタ・エアラインとノースウエスト・エアラインの破産がニュースになっています。これは重大な兆候です。何とアメリカの大手7社のエアラインのうち、4社までが破綻していると言います。私は本当にびっくりしました。アメリカにおけるエアラインの位置は日本とは全く違うことをまず頭に入れてください。アメリカの大都市間の交通はエアラインなしでは成り立ちません。エアラインは日本のJRに等しいのです。例えばサンフランシスコとロスアンジェルス間は日本で言えば東京岡山間に等しく、とても陸上交通では気軽に行ける距離ではないし、ビジネスもその距離を無視しては成り立たないのです。さらにアメリカには新幹線はないからエアラインが大動脈に当たります。そのように重要な産業が破綻してしまうと言うことはこれまでのアメリカでは考えられないことでした。これからの時代にどう対処したらいいのか、イエス様の言葉に学びましょう。
1.「気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。」これが大切です。思いがけないこと、これまでになかったことが自分の身近に起こるかもしれません。私は時々地下鉄を利用するのですが、それこそ何が起こるか判らないと思っています。クリスチャンは何が起きても「想定内」のこととしてあわてないことです。
2.「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」耐え忍ぶことが求められています。耐え忍ぶと言うことは、あきらめないと言うことです。希望を失わないことです。どんな困難の中でも決して希望を失わないで下さい。神様を見つめてじっと耐え忍ぶのです。
3.「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」どんなに時代が悪くなっても、最後の最後まで福音は伝えられなければなりません。クリスチャンはどんな時代でも福音伝道の挑戦者です。
4.「目を覚ましていなさい」このことばは常に祈りと関連付けられて語られます。ペテロ先生も言っています。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」Tペテロ4:7
終わりのときは、神様のご計画が実現するときです。いよいよ神様の答えが現されるのです。その意味で私たちは歴史の中で最もスリリングでエキサイテングな時代に生きているのです。神の御手が目に見えて現れるときなのです。災害の中で、あわてないで、耐え忍んで、目を覚まして、祈りましょう。そしていつでも救いの福音を伝える準備を忘れないで下さい。アーメン、主イエスよ、来たりませ。マラナサ。