ホームページ・メッセージ050911         小 石  泉

神の呼びかけ


 最近、携帯電話を新型に替えました。二年ぐらい使ったのでポイントが貯まり、特別な値引きもあってほとんどただのように替えることができました。しかし! 先日、旅行に行ってどこかに置き忘れてしまいました。これで携帯電話を無くしたのは二度目です・・・。私は自分の携帯の番号に掛けてみました。どこかで鳴らないかなあと期待して。しかし、身近なところには無いようでした。私は思いました、私の携帯はどこかの草むらか、ゴミ箱の中で鳴っているのかなあと。そして思いました、これって神様の呼びかけに似ていると。神様も私たち人間に呼びかけています。「私の元に帰ってきなさい」。しかし、多くの人の信仰の携帯電話機はどこかの草むらか、ゴミ箱に入っていて空しく鳴っているのです。

それゆえ、万軍の主はこう仰せられると、彼らに告げよ。万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰ろうと、万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ1:3

 万軍の主というのは神様のお名前の一つで特に力強いことを強調する場合に用いられます。昔の日本軍は陸海空の三軍でした。今のアメリカは陸海空のほかに海兵隊とかミサイル部隊とかあって四軍、五軍でしょうか。万軍とはものすごい軍隊です。英語の場合はただ、houst というので万という意味はあるのでしょうか。どうして日本語の翻訳は万軍と訳したのでしょうか。不思議ですね。いずれにしても無数の天使の巨大な軍隊を背景に立つ宇宙の主があなたに「わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰ろうと」と言われるのですから、何だかひどくミスマッチな気がしますね。そんな力強い方が、私たちに呼びかけてくださるなんて。しかし、主は最も小さいものも決して忘れないのです。

主は言われる、「イスラエルよ、もし、あなたが帰るならば、わたしのもとに帰らなければならない。もし、あなたが憎むべき者をわたしの前から取り除いて、ためらうことなく、また真実と正義と正直とをもって、『主は生きておられる』と誓うならば、万国の民は彼によって祝福を受け、彼によって誇る」。エレミヤ4:〜2

 私がとても興味を引かれるのは「もし、あなたが帰るならば、わたしのもとに帰らなければならない」と言う言葉です。わたしのもとに。他の誰でもない、わたしのもとに。迷うことなく、道を誤ることなく。一直線にわたしのもとに。わざわざこう言われるのが、面白いですね。そうするなら、あなただけではなく「万国の民は」祝福を受けると言うのです。これはイスラエルだけに与えられた言葉でしょうか。いいえ、ローマ書の中でパウロ先生はアブラハムの信仰に習うものが本当のイスラエルだと言っています。ですから信仰によりこの言葉を受け取る人全てがこのような祝福を受け、また祝福の基になるのです。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。イザヤ44:22

悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。55:7

 ためらわないで。ものおじしないで。卑屈にならないで。帰りなさい。もう、あなたの罪は贖われ、あなたを迎える準備は、整ったから。
 多くの場合、クリスチャンでさえ、自分の努力で神に近づこうとします。しかし、神に帰る道は、ただ「帰ろう」と言う意志だけです。あの放蕩息子のように。何の取引材料も功績もなく。救いは神の側の努力であって、人間の努力は全く必要ありません。いや、むしろ人間の努力は邪魔になるのです。
 長年、牧師をやってきて、いつも心痛むことは、兄弟姉妹が教会を離れて行く事です。他の教会に移るのは私の力不足でやむをえないとしても、教会に出席しないでいる場合はとても気になります。その場合、信仰があって行かないのと、信仰も失ってしまうのと二つのケースがあります。信仰があっても何となく自分に合う教会がない、または近くにしっかりとした教会がない、あるいは仕事が忙しくてなかなか出席できないでいつの間にか何年も経ってしまった、というようなことなのでしょう。しかし、覚えてください、あなたは、今日も、神様に深く愛されています。

わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。雅歌2:8〜10

 神様はどきどきするほどあなたを愛しておられます。いつでもあなたを抱きしめたいと願っています。あなたは神様から離れることなんて出来ません。

主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。
これは高くて達することはできません。わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。詩篇139:1〜12


 では、わたしたちは何もしなくていいのでしょうか。もちろん救いの条件は、何もしなくてもいいのです。ただ、救われているなら、愛されていることがわかったなら、愛しましょう。あなたのできるかぎりのやり方で。

イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。マタイ22:37

 信仰の道は決して人生のわき道や、ついでに歩くものではありません。いつも最善を尽くして求めるものです。そうするなら全てのことは、それこそ、添えて満たされるのです。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。マタイ6:33

 私は、ある婦人のことを忘れることができません。彼女はすでにクリスチャンでしたが、私たちの教会の近くに引越ししてきて息子さんと一緒に教会に来ました。彼女は有能で、色々なことを手広くやっていました。お花の先生、ペーパークラフト、などなど「忙しくて、忙しくて、なかなか教会に行けないのです。」と言っていました。私は彼女の手にこぶがあることが気になっていました。しばらくして、息子さんが一人で悄然として教会に来ました。「どうしたの?」と聞くと、「母が亡くなりました」と言う答えでした。
 彼女の中での優先順位は「まず神の国と神の義とを求め」ることではなかったのではないかと私は思います。

ことのできるうちに、主を尋ねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。イザヤ55:6〜9

「主にお会いすることのできるうち」「近くにおられるうちに」神様の呼びかけにこたえて下さい。