ホームページ・メッセージ  050904         小 石  泉

毎日の奇跡


 先日、久しぶりに日光に行きました。戦場ヶ原や光徳牧場を通って金精峠、菅沼、丸沼を経て沼田に抜けて帰ってきました。何度も行ったコースなのですが、何度行ってもあのすがすがしい空気には本当に癒されます。何よりも空気がご馳走ですね。
 途中でトンボが沢山飛んでいました。そのトンボはとまっていて、触っても動きません。全く警戒心がないのです。いつも思うのですがトンボって不思議ですね。あの小さな体で自由自在に飛び回り、時にはまるでヘリコプターのように空中に停止しています。だれがあんなすばらしいものを作ったのでしょう。自然が、偶然作ったというのですか? 私にはその方が無茶苦茶な理論だと思います。紙飛行機でさえ誰かが紙を折って作らないと飛ばないのに。
 自然は奇跡に満ちています。私が18年まえに書いたエッセーの一部を引用します。
「『人間の起源』という本の中に次のようなことが書かれている。あまりにも不思議なことなのでここにも取り上げてみたい。
 赤血球の中のヘモグロビンは自分の4倍の酸素を吸収する。一個の赤血球の中には3億個のヘモグロビン分子があるが、このヘモグロビンは炭素原子758、水素1203、窒素195、
硫黄3、鉄1、酸素218の計2378個の原子から出来ている。この内1つでも多かったり、少なかったりしてもヘモグロビンにはならない。しかもこのヘモグロビン3億個から出来ている赤血球は毎分7200万個失われ、同じ数だけ作られる。この恐るべき生産活動は人の一生の間、休みなく、私たちの体の中で最も防備の固い骨髄で続けられている。このような工場は、人間が作ろうと思っても不可能だという。神の創造は、血液一つとっても、このように脅威なのです。」随想集「川のように海のように」より
 もしこのような工場を作ろうと思ったら壮大な建物が必要だろうし、元々、全く不可能なことです。それが私たちの体の中で毎日、毎時、毎分、毎秒行われているのです。人間のすべての器官や一つ一つの細胞についても同じことが言えるでしょう。人間って奇跡の塊ですね。それに比べたら、世の奇跡とかマジックなんてチャンチャラおかしいですね。

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。 ローマ1:18〜23

 もし私たちが本当に謙虚に自然を見つめるなら、そこに神の力と神性とを知ることが出来るはずだとパウロ先生は書いています。ですからその思いは空しくなり、無知な心は暗くなって進化論などという馬鹿げた迷信を信じているのです。進化論のばからしさは、すべての元になる物質がどこから来たのか証明できないことで判るはずです。酸素や窒素などの原子はどこから来たのですか。無から有は生じないのです。
 さて、宇宙に目を転じると、現代の都会に住む人は子供ばかりでなく大人までが天の川を見たことがないといいます。何と気の毒なこと。私が子供のころは天の川はいつも頭上にありました。ちょっと長いですが、神の天地創造の別の記録を見てみましょう。

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測利なわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。
かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。」ヨブ38:1〜7


 ここはヨブという人が神と論争したときに神が語った言葉です。宇宙の創造を神様は誇らしげに書いています。ここに書かれていることを、今は科学的に捉えることは出来ませんが、もっと科学が進めばなるほどと納得できるに違いありません。宇宙を設計し建設することは大変な大事業だったことでしょう。神様だけが出来ることでした。
 ところで、おかしなことにサタンは自分のことを創造主と呼べないので、「偉大な建築家」Great Arctect と礼拝者に呼ばせます。何を建築したのでしょうか。
 天地が創造されたとき「神の子たちはみな喜び呼ばわった。」とありますがこの神の子とは天使のことだと考えられます。ヨブ1:6 参照 この中にサタンになる前のヘレル(ルシファー)もいたのです。

海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
あの時、わたしは雲をもって衣とし、黒雲をもってむつきとし、これがために境を定め、関および戸を設けて、言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、おまえの高波はここにとどまるのだ』と。あなたは生れた日からこのかた朝に命じ、夜明けにその所を知らせ、これに地の縁をとらえさせ、悪人をその上から振り落させたことがあるか。地は印せられた土のように変り、衣のようにいろどられる。38:8〜14


この部分は、今はまだ判りません。海の水がどこから来たのか、胎内とは地球の内部のことなのか。しかし、海の水はたしかに特別の場合を除いて、いつも限界を知っています。そして面白いのは最後の「地は印せられた土のように変り、衣のようにいろどられる」という箇所です。これはあまり正確な訳ではありません。新改訳聖書の方が意味が近いです。

地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。38:14

 古代において印章はちょうど今の印章のように丸く短いシリンダーのようなものでした。このシリンダーは恐らく象牙のようなものだったのでしょう。そこに絵や文字を彫刻したのです。そして当時の書類は粘土板でしたから、まだ柔らかな表面に文章を書いた後、そのシリンダーを乗せてコロコロと転がしたのです。するとその彫刻が粘土板に浮き彫りになって残ります。これが当時の印鑑でした。要するにここは地球が回転していて、同じところがまた戻ってくるということを言っているのです。
 この他に、ヨブ記には現代科学がやっと解明した真理が何気なく書かれている箇所が沢山あります。

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。 神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。26:7〜10(新改訳

 ヨブ記は紀元前1500年ほど前の書物ではないかといわれていますが、すでに地球が「何もないところに掛けられている」と言っています。その後の世界で地が平らで象の上にあったなどと言われたことと比べてください。「神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。」という箇所もまるで宇宙飛行士が宇宙から地球を見ているように、地表面に円を描いた夜と昼を現しています。その他にも、地球が球体であることを表す言葉があるのですが、今は忘れてしまって思い出せません。
 初めの部分の「神は北を虚空に張り」という箇所でも私の18年前のエッセー集から引用しましょう。
「新聞の朝刊を開いたら『宇宙にポッカリ虚空』という見出しがあった。最近の発見によると北斗七星の方角に、星のない3億光年ほどの大きさの虚空があることがわかったという。読んでいるうちに“あれ、そんなことが聖書にも書いてあったな”と思い出してヨブ記を開くと26章7節に神は北を虚空に張り」とあるではないか。やっぱり聖書は3500年も前からそのことを記していたのだ。学者がその解説の中で“この発見によって宇宙進化論も大幅に考え直さなければならない”などと言っている。良く考え直してもらおうと思って、聖書のそのページをコピーして新聞社とその大学の先生に送っておいた。」
 私たちは、改めて奇跡を神様から見せていただかなくても、毎日が奇跡の中にあるのです。医者や科学者たちはその気になればいくらでも神の不思議な御手を感じるはずです。
「彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」
神を神として認めることは人間の本質的な問題です。その時、初めて人は人となるのです。初めて自分の存在する意味を知るのです。