メッセージ050828 小 石 泉
最も大切な宝
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネ14:12
若いころ、私はこの御言葉に魅了されて、奇跡やしるしなどの大きな業をしたいと願いました。断食と祈りによってもっと力を得たいと願いました。しかし、叶いませんでした。多くの癒しの大会とか、奇跡の現れる集会とかにも行きました。しかし、ほとんどそのような大きな業を見たことはありませんでした。
その結果、イエス様に似たものとなるにはイエス様と似た品性を持たなければならないのではないかと思うようになりました。だれも自分の子供が十分に成長していないとき、強力な武器は与えません。イエスに似るには、力を持つことの前に、その品性に似るものとならなければならないのではないでしょうか。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。マタイ11:28〜30
イエス様の品性の第一はここにあります。「わたしは心優しく、へりくだっているから」。謙遜は神の品性であり、高慢はサタンの品性です。
あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。エゼキエル28:4〜5
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。28:17
これは天使長の一人ヘレル(ラテン語でルシファー)がサタンとなった理由です。それは高慢でした。人間が高慢になるときそれはサタンに似るものとなるのです。
65年間生きてきて感じるのは、人間とはなんと高慢なものだろうかということです。最善のクリスチャンでもこの性格を持ち、しばしば取り返しのつかないところに行ってしまいます。高慢は醜く、浅はかで、いやしく、神の最も嫌われる品性です。私たちは時々、「自分は何者だろう」と自問自答することが必要です。全く何者でもないのに、まるで途方もなく偉いもののように思い違いをしていないでしょうか。
一般的にクリスチャンが神に求める主な賜物は“清さ”と“力”ではないでしょうか。私を、清くしてください。清くなりたい。しかし、これはある種の人々が言うように突然、あっという間に与えられるというようなものではなく、木が生長するとき、自分の皮を少しづつ剥いでいくように、わずかづつ獲得できる賜物です。また力は、しばしば高慢を生みますから、剣のように危険な賜物です。
聖書の中で、最も偉大な人はモーセでしょう。彼は10の災いでエジプトを打ち、紅海を二つに裂き、岩から水を出し、空からパンを与え、300万人のイスラエル人を40年間荒野で養ったのです。しかし、そのモーセの最も偉大な性格は謙遜でした。
さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。民数記12:3
このモーセがやはり高慢の誘惑に負けたことがあります。
主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」民数記20:7〜12
「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」。モーセは前に神の命令で、岩を打って水を出した経験がありました。そのために思わず「私たちが」と言ってしまったのです。そして岩を打ったところ水は出ませんでした。彼はあわてて二度目を打ちました。神様はモーセを哀れんでイスラエルの会衆の前で恥を欠かせないために、水を出させました。しかし、このことは彼の数少ない罪となりました。その結果、彼は約束の地パレスチナを見ることは出来ても入ることは出来ませんでした。
この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」申命記32:48〜:52
「わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。」何という厳しい判決でしょうか。たった一度、高慢が心をかすめただけです。しかし、モーセほどの人物にはそのようなささやかな罪も許されなかったのです。
ダビデも謙遜な人でした。それも多くの例を見出すことが出来ますが、今回は唯一つだけ、彼の言葉を見ましょう。二箇所に同じ言葉が書かれています。
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの謙遜は、私を大きくされます。Uサムエル22:36
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。詩篇18:35
不思議な言葉です。神の謙遜が私たちの力になるというのです。ちょっと蛇足ですが、この箇所を新共同訳聖書は全く違って訳しているので面白いと思いました。
手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。(新共同訳)
英語の聖書もほとんどが新改訳と同じような訳なので、どういうわけか不思議です。口語訳は新改訳とあまり変わりません。
あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。(口語訳)
謙遜は聖書に繰り返し現れる気高い品性です。
人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。箴言18:12
謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。22:12
あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。3:34
高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。11:2
すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。ゼパニヤ2:3
私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。使徒20:19
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。Tペテロ3:8
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。Tペテロ5:5
神を信じないというのも、もちろん無知の故ということもありますが、結局、高慢の故です。自分は何者だろう。時には静かに冷静に考えてみることも必要です。
謙遜は最も美しく大切なクリスチャンの宝物です。