ホーム・ページメッセージ    050821       小 石  泉

政治と信仰


そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。マタイ22:15〜22

 この頃、日本の政治がにぎやかですね。小泉総理の郵政民営化が大きな議論を呼び、ついに衆議院解散、総選挙です。公認しないの刺客だのと、結構、小泉さんもやりますね。郵政民営化は今後の日本にとって良いことなのか悪いことなのか、いろいろな議論があります。小泉さんは官僚による非能率、独善的な経営がすべてにわたって良くないから民営化すべきなのだといいます。一方、政治家は自分の利権が犯されることへの不安を感じるのでしょう強力に反対していました。またインターネットや賢い人々は、民営化によって350兆円の郵便貯金が外国の手に渡ってしまうと警告しています。
  私にはどちらが正しいのか良くわかりません。ただ一つはっきり言えることは政治というものは相対的なものだということです。こちらを立てればあちらがへこむ、こっちが正しいと進んでいくと、国中がつまづいてしまう。絶対ということはないのです。そしてそれは幸いなことです。政治が絶対者によって支配されたら恐ろしい結果になります。かつての日本は天皇は絶対でした。何しろ現人神(あらひとがみ)、神様だったのです! そのためにどれほど多くの命が失われたことでしょうか。また、今の北朝鮮も同じです。金体制によってどれほど北朝鮮の民衆が苦しんでいるか。ですから政治が相対的であるのは良いことです。
 私たちクリスチャンは絶対者である神を知っています。それだから現在の政治に絶対的な依存や選択をすべきではありません。常に相対的な判断、見解を持つべきです。そして私たちのとるべき態度は、上の御言葉に示されています。
 パリサイ人やヘロデ党の者たちはイエス様を言葉のわなにかけようとしました。当時イスラエルを支配していたローマに税金を払うべきだといえば、ユダヤ人や愛国者たちの非難を浴びます。払うなといえばローマから圧迫されます。しかし、イエス様は見事に答えられました。「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。霊的なものとこの世のものとを分けられたのです。
 ここで特に注意をしていただきたいのは、イエス様はカイザルの権威を認めているということです。ユダヤにとって憎むべき敵国の王でも、神が権威を与えているとしていることです。世界史的に見るとローマの占領支配はかなり寛容なものでした。しかし、神の選民を自認するユダヤ人にとっては我慢ならない支配者でした。それにもかかわらずイエス様はカイザルの権威を認めているのです。パウロ先生も上に立つ権威を認めるように勧告しています。

 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
 ローマ13:1〜7


 私は、クリスチャンはこの言葉を文字通り受け取るべきだと思います。ただ、信仰を迫害したりする暴虐な支配者には、抵抗しても良いと思いますが、それでも原則的には支配者、王には従うべきです。というより、実は私たちにとっては、この世の出来事は、間接的な問題なのです。

愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、Tペテロ2:11

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。へブル11:13


 基本的に言えば、私たちはこの世では寄留者です。もちろんクリスチャンがこの世の支配者、経済界の重要人物、あらゆる分野で有能な働き手であってほしいと思います。しかし、この世の問題はしばしば相対的です。今、正しいことが次の時代に正しいとは限りません。戦争中に正しかったことが戦後には間違いだったということもあったではありませんか。
 前の戦争の時、アメリカは日本を追い詰め、戦争に至るように仕向けました。だから東京裁判の時、インドのパール判事はアメリカが日本に突きつけた最後通牒「ハルノート」に対して、このようなものを突きつけられたら、モナコのような国ですら武器を持って立ち上がっただろうと日本を弁護しました。それも正しいでしょう。しかし、当時の日本は軍部が極限まで思い上がり、他国はもとより自国民さえ苦しめていたではありませんか。私は日本が敗北しなかったらどうなっていただろうと思います。南京大虐殺はうそでしょうが、中国で、朝鮮で日本人は恐るべき犯罪を犯したことは確かです。新しい日本刀の切れ味を試すためにどれほど多くの中国人、朝鮮人が殺されたことか。私はその罪を心に負って戦後いつも仏壇で祈っていたある警察署長を知っています。朝鮮のクリスチャンを教会に閉じ込め、火を放って焼き殺した有様は韓国に行けば見せてくれます。「この子だけは助けてください」と窓から差し出した赤子を銃剣で突き刺した日本兵もいたのです。結局、この世のことは相対的なのです。何が絶対的な正義か悪かは神のみぞ知ることでしょう。

あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。テトス3:1〜2

 クリスチャンは国の指導者を安易に批評したり、社会主義者のようにいつも否定的に批判したりしてはいけません。次の御言葉のようであるべきです。

そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。Tテモテ2:1〜2

 これは私の意見ではなく、聖書の命令です。もちろんこれは原則であって、例外もあるのですが。