ホームページ・メッセージ050814 小 石 泉
カインとセツ
8月になると戦争の記念番組や記事がテレビや新聞を賑わします。原爆、東京大空襲、沖縄、それに加えて20年前の日航機事故、本当に暗い悲しい事件ばかりです。どうして人間はこんなに暗く悲しい歴史を持っているのでしょうか。
アダムとエバが神様に創造された時、
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。創世記1:31
とあるように、全ては良かったのです。そして、神様は人間をエデンの園に置かれました。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。2:8
ロバート・ヤングのコンコーダンス(聖書語句辞典)によればエデンとは「大いなる喜び」と言う意味です。(水の豊かな所と言う説もある)何と、人間が最初に住んだのは「喜びの園」だったのです。しかし、人は神様の戒めに背いてこのエデンを追われました。そして最初の子供たちが生まれ、彼らが成人し、それぞれ家庭を持ち、一家の主と成った時、彼らは父の元を離れて最初の礼拝をしました。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。4:3〜16
人類最初の家庭で兄弟の殺人事件が起こりました。何と悲惨な家庭でしょうか、一日のうちに死者と殺人者を出したのです。
ここで、なぜカインの奉げ物が顧みられず、アベルの奉げ物が顧みられたのか説明しておく必要があるでしょう。スタインベックでさえ納得がいかなくて「エデンの東」なんて言う本を書き、カインだって顧みられるべきだったと主張しているのです。
聖書によれば神に近づくには絶対守らなければならない原則があります。それはレビ記、申命記などに詳しく載っているように、血を携えて行かなければならないのです。罪ある人が神に近づくには罪の身代わりの犠牲が無くては神の義が犯されるのです。このことをカインもアベルも父アダムから聞いていたはずです。しかし、カインは自分が育てた産物を奉げました。それは人間的に考えれば愛すべき行為かもしれません。こんなに立派に出来たんだ。彼は自信満々、誇らしげに持ってきたのです。これは人間の思いつく宗教の原型と言えるでしょう。人間の努力、修行、難行苦行、煩悩を捨てる、私はこんなに努力し精進しましたよ。仏教がその典型です。千日回行、チベットなどで見られる全身をひれ伏しては起き上がって何キロも何百キロも歩いて聖地に向かう苦行。しかし、その全てによっても人間が神に近づく最初の条件、罪を清めてという条件は満たされないのです。それどころかそこには自分の行ないへの誇り、優越感、競争心、虚栄心などが倍加するだけです。そのためにカインの奉げ物は神に受け入れられませんでした。カインは謙虚に自分の間違いを認めることをせず、弟アベルを嫉妬のあまり殺してしまいました。アベルとは「はかない」と言う意味ですが、本当にはかない命でした。アダムとエバの嘆きが聞こえて来るようです。カインはその後、エデンから更に遠い東の地ノドに追放されました。ノドとは逃亡、流浪と言う意味です。私はカインを見ていると、人間には悪に傾きやすい人というのが居るのではないかと思います。もちろん全ての人は罪人です。しかし、社会一般を見ても、カインのように大胆に悪を行なう人とそうではない人がいるように思います。
カインはその後、多くの子孫を持つことに成りましたが、彼らは本当にろくでもない系列です。特に7代目のレメクは無頼の徒でした。
レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。4:23〜24
何とも恐ろしい暴力的な言葉です。一方、アベルの代わりに与えられたセツは穏やかな系列を持つことになりました。彼の家系は神の祝福を受け継ぐことになりました。特に同じ7代目のエノクは驚くべき恵みの生涯を送っています。
エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。5:22〜24
「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」私はここを読むといつもわくわくします。神と共に歩いたので「いなくなった」のです!人が生きたまま天に上げられたのです。どう考えても人間にはカイン的な系図とセツ的な系図があるような気がしてなりません。確かに人は皆、罪人です。パウロ先生は恐ろしい言葉でそれを書いています。
次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。ローマ3:10〜8
確かに人間を神の正しさの基準でトータルに見ればこの通りでしょう。しかし、人間の中には神を心から求める人々も居るし、悪を恐れる人もいるのです。ごく普通の人でもそういう心を持っているものです。私が行く床屋さんはとても上手で優しい人です。彼はある時、私にこんなことを言いました。「人を殺して金を手に入れて、それで何か食っても旨いかねえ。」
私達は人間が罪深いものであり、カインのような性質を持っていることを認めます。しかし、同時にカイン的な人と、セツ的な人、罪に傾きやすい人と、罪を恐れつつ、弱さを嘆きつつ、神を求めて懸命に生きようとする人もいるのです。エノクのように神と共に歩くことは出来なくても、少しでも神に喜ばれる生き方をしたいと願う人々もいるのです。
日本人の中には神を知らなくても罪を憎み、正しく生きようとする謙虚な人々が沢山います。こういう人はニュースにはなりません。ニュースになるのは異常な人恐ろしい人、カイン的な人がなるからです。私達はそのような人たちを励まし、少しでも神に近づけたいものです。