メッセージ050731 小 石 泉
神を慕う
詩篇第二巻 指揮者のために。コラの子たちのマスキール
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。
昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある。
わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と。
わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。詩篇42:1〜11(口語訳)
(この詩篇の翻訳も口語訳聖書が優れていると思いますので口語訳でお話します。)
この詩篇はコラの子が歌ったものと書かれています。(U歴20:19)コラはレビ族の有力者でしたが250名の指導者を集めモーセに反逆したために生きながら地面が裂けて埋まってしまうと言う恐ろしい裁きを受けた人です。(民数記16:1)しかし、その子供たちは死にませんでした。(民数記26:11) そして神殿で賛美を歌う者として選ばれました。ダビデが選んだ3人の聖歌隊の指揮者の一人ヘマンはコラの子孫です。聖歌隊といっても当時は軍隊に匹敵する重要な部署でした。
生きながらにして地面に飲み込まれると言う恐ろしい裁きを受けた子孫は、普通なら呪われた部族として嫌がられ、うとんじられたでしょう。しかし、神様は父親の罪を子に報いることはぜず、尊い働きに任命し、ダビデもイスラエル民族も彼らを尊んだのです。
そのような歴史を背負った、この詩篇の作者は、何と言う美しい歌を書き残したのでしょう。詩篇はほとんどがダビデの歌ですが、その中にコラの子の歌が少しだけ出てくるのです。作者(恐らくヘマン)はそれほど優れた歌を作ったのでしょう。
鹿が谷川の水を慕い求めるように、人は神を求めるものでしょうか。宗教とはそんなものなのでしょうか。一般の常識から言ったらこれは恋愛の歌です。神を慕う? 畏れるとか敬うとか言うなら判るけど、愛するだの、慕うだの。判らない。しかし、本当の信仰者にとって神は慕うものであり、愛するものなのです。
さて、あなたは神を慕っていますか? それもかわいているように慕っていますか? かよわい雌鹿が恐ろしい敵におびえながら、のどの渇きに耐え切れずに、谷川に水を飲み来る、それほどの切迫感を持って、神を求めていますか? この作者にとって、神はそれほど身近で現実の方でした。彼は神が自分を受け入れてくれるかどうかなど心配することはありません。ただ、ただ、神を求めるのです。「人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。」不信仰な人々が「神が居るなら見せてみよ」とあざけります。そんな時、ただ涙だけが彼の慰めでした。
かつて共産主義華やかなりしころ、ソビエトの学校で無神論の教育が行われました。ある授業で、無心論の教師が「神が居るなら見せてみろ。」と言いました。すると一人の子供が立ち上がり「聖書に、心の清いものは幸いです、その人は神を見るからです、と書いてあります。あなたが、神が見えないのは心が清くないからです。」と答えました。その教師は烈火のごとく怒りその子を鞭打ちました。しかし、クラスの子供たちとその町の人々全部はその話を大いに話題にし、その教師は結局その町から出て行きました。
「わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。」これなど今でもそのまま行われる伝道の姿ではありませんか。
それでも信仰の歩みがいつもいつも成功と喜びに満ちているわけではありません。いやむしろ「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。」と言うことの方が多いかもしれません。「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と叫ぶ日もあるでしょう。
イエス様は、言っておられます。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネ6:33
悩みも苦しみもあるのです。しかし、主を見上げるとき私たちは詩篇の作者のように、元気づくのです。
次にイエス様の方から見てみましょう。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。マタイ23:37〜39
神様は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、人を幾たびも集めようとした、のです。すべての人を神様は呼び求めています。しかし、「それを好まなかった」。私はこの「好まなかった」という言葉が身に染みます。本当に人間のほとんどの人々は神様を好まないのです。これが私には一番不思議です。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。詩篇14:1〜:3
聖書は「神は居ない」というものは愚か者だと言っています。しかし、この世では「神はいる」と言うものが愚か者とされます。しかし、神は居ないという人々が作る社会が、平和と喜び思いやりと慰めに満ちていることは無いのです。殺人、強盗、詐欺、レイプ、放火、虐待、ありとあらゆる邪悪がはびこっているではありませんか。
もう少しだけ、神様は忍耐して、人間の自由と創意を許すでしょう。しかし、間もなく神ご自身が御力をもっておいでになるでしょう。
それにしても、私は思います、神を慕うというとき、それがあなたの日常生活となっているでしょうか。あなたは独りでいるとき神を慕い求めているでしょうか。教会で集まっているときだけ、賛美しているときだけ、神様を慕うというほど現実の存在としてあなたの前に置いているでしょうか。
今、日本の教会はすばらしい賛美があります。これはかつて無いことで、力強い前進といえるでしょう。しかし、気をつけてください、あなたが個人的に神を慕い求めていないなら、それは単なるひと時の興奮に過ぎません。ある人が、最近の教会は「やかましい鐘や、騒がしい鐃鉢」だと言いました。そんなことは無いですよ、愛もありますよ、と言いましょう。その最も大切な基本に、あなたと神との親しい関係、交わり、慕う心が無ければなりません。かわいているように。
■マスキール (〈ヘ〉maskil) 詩32,42,44,45,52,53,54,55,74,78,88,89,142篇の題目として出てくる語.ヘブル語の動詞「サーカル」からきたことばで,サーカルが「指図する」「教示する」「理解する」という意味を持っていることから,教訓的な歌というような意味を持っていると思われる.ルターは「教示する歌」「教える歌」と訳している.しかし多くの学者は不明確な語として扱っている.(聖書事典)
マスキールの意味は明確ではないが,8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモ5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある.13の詩篇に表題として用いられている.47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すものと思われる(聖書注解)