メッセージ050724              小 石  泉

富と虚無


伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。伝道の書1:2〜3

 「空しい…」。若いころ、会社で仕事をしていたとき、突然、隣の女性の同僚がつぶやきました。その方は、美貌と富に恵まれた資産家の令嬢でした。彼女は私がクリスチャンであることを知っていて色々質問をしていたのでした。彼女は今から40年も前に、若い女性なのに、自分の車を持ち、家は開かずの間がいくつもあるという家柄でした。しかし、彼女の口から出た人生への正直な言葉は「空しい…」でした。
 今、テレビでセレブと言うような言葉がよく言われます。そして豊かな家が紹介され、何億円のダイヤだの、高価なヨーロッパの家具だの、美しい陶器だの、有名ブランド物などがため息まじりで映し出されます。私は馬鹿だなあと思います。そのように豊かな人々は本当に幸せでしょうか。大金持ちになって次に来ることは虚無感なのです。それも底知れぬ、恐ろしいほどの虚無感です。私は大金持ちになったことはありませんが、それが判ります。ダイヤモンドと語り合えますか? ミンクのコートがあなたの悩みを聞いてくれますか? 物質は物質に過ぎません。ソフィア・ローレンというイタリヤの有名な女優がいました。彼女はあるときこう言っています。「私は仕事柄、大抵のものは手に入れることが出来ました。でも、本当に価値があったのは物質ではなく精神的なものでした。」
 人間が一番幸せなのは金持ちになりたいと思っている時です。もちろん物質は人間に必要なものですが、有り余る物質は人間の精神生活に何も与えません。物質的な繁栄は人間を本当に満足させることはありません。
 そんな人々に比べれば蚤のような経験ですが、私にもあります。私はもともとカメラが大好きなのですが、若いころペンタックスと言うカメラが欲しくて、欲しくてたまりませんでした。そして、とうとうボーナスをはたいて買いました。しかし、それを手にしたとき、突然、強烈な失望感に襲われました。ショーウインドーの中のペンタックスは“あこがれと夢”でした。しかし、今、手にしていたのはただの鉄とレンズの“物質”でした。あこがれが大きかった分、失望も大きかったのです。
 また、奇妙に聞こえるかもしれませんが、今の会堂を建てたとき、1年間の苦闘の末にやっと献堂式をした後に、私は強烈な虚無感に襲われました。数ヶ月間、何もかもいやになって本当に死にたいとさえ思いました。会堂は教会にとって祝福ですが、会堂が教会ではありません。会堂に集まる人々が教会です。それが痛いほど判りました。
 人間は貧しいときに富を得たいと言うあこがれを持ちます。しかし、あこがれが満たされたときに、喜びの後に来るものは虚無感なのです。富の増加と虚無感は比例するように思います。先日イタリヤに行ったとき、王たちが競って集めた有名な画家による絵をみました。ダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。しかし、私はひねくれているのでしょうか、「だから何なんだ?」と思いました。
 「空の空、空の空、いっさいは空である」。この言葉は栄華を極めたとイエス様が言ったソロモンの言葉です。ソロモンは決定的にこのことを知っていました。そしてすべての人間に言っています。

金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。5:10

 何と彼は生きることさえいとうようになりました。               

私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。2:17


 彼は自分の経験以上のことをできる人はいないと言っています。

わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。2:12

 もっとも、若い人がこのような悟り切ったことを言うとすれば、それはおかしなことでしょう。若い人には夢や希望があって欲しいものです。ソロモンも大金持ちになってからこういうことが言えたのですから。ただ金、宝石、有名ブランド物、豪邸、そんなものが人生の目的であって欲しくないのです。私はいつも、有名ブランド物を持つ前に、自分がそれにふさわしい人相、品性、資格を持っているか考えてからにして欲しいと思います。女子高生が競ってバーバリーのマフラーをする国なんて日本ぐらいのものでしょう。
 イエス様は次のように言っておられます。

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。マタイ6:24〜34

 「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」
皮肉なことに、ソロモンだけでなく、アレキサンダー、秦の始皇帝、チンギスハーン、などなどこの世の王といわれた人々は、皆、この虚無感にさいなまれた人々です。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 人が求めるべきものは物質ではなく、「神の国と神の義」だとイエス様は言われます。物質は添えて与えられるのだと。添えものなのです。
 第二次世界大戦の後に、日本は急激に物質的な繁栄の道をたどりました。そしてかつて一度も経験したことのない豊かさを手に入れました。しかし、日本人の精神的な状態はかつてないほど貧弱になりました。日毎に起こる、恐るべき事件。若者たちは方向を見失って混乱と無秩序の中に居ます。私はこれからの日本を思うとき、背筋が寒くなる思いです。日本の歴史上、戦争を除いて、これほど簡単に人の命が失われることはなかったでしょう。ほんの日常生活の中に、全く横暴に暴力や殺人が入り込んでくるのです。戦後の無神論教育は実に見事な実を結んでいます。
 また、今はお笑いブームです。テレビに登場するタレントのお笑い系の人々の多いこと。人々はそれほど笑いを求めているのでしょう。しかし、これも虚無の最たるものです。

わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。伝道の書2:2

 笑いの無い生活は楽しいものではありませんから、あって悪いとは思いませんし、私も幾人かのお笑い芸人は好きです。しかし、かつてローマ帝国が快楽と楽しみで腐敗して行ったように、日本も同じ道をたどっているのではないかと思います。

事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。12:13〜:14

 神を知り、神を敬うなら人生を喜び楽しんで良いのです。神の国と神の義を第一にするなら、「添えて与えられる」人生の喜び楽しみを受け取るのは悪いことではないのです。あまりしゃちほこばって、くそ真面目に生きろと言うのではありません。神様は私たちが喜んで生きることを望んでおられます。多くを望まず与えられた範囲で。

金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。ヘブル13:5