ホームページ・メッセージ 050710 小 石 泉
賢く、聡く、思慮深く
キリスト教はまだ完結していない宗教です。キリスト教には最も大切な5つの教えがあります。神の天地創造、御子の受肉(人となったこと)、十字架の贖い、復活、再臨です。このうちで始めの4つはすでに2000年前に完結しました。しかし、最後の再臨はまだ終わっていません。時間的な経緯から言えば、再臨は私たちから最も近い出来事です。しかし、最も語られない事実です。今の時代に、私はもっと語られなければならないことだと思います。私はその意味で毛色の変わった牧師と言うことになっています。
聖書は神の書かれた歴史のシナリオです。英語の歴史と言う言葉、HISTORYはHIS STORY(神の物語)だと言われます。このシナリオは終わりを目指して進んでいます。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。伝道の書3:11
「神のなさることはすべて時にかなって美しい。」本当にそうですね。春には花が咲き秋には紅葉が輝きます。ではこれからの神様のシナリオはどうなっているのでしょうか。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。マタイ24:37〜51
再臨、すなわちイエス様が来られるのはノアの洪水のときのようだとイエス様は言っておられます。「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
明らかにノアの時代のほとんどの人々は、迫り来る危機について無知であり無関心でした。そして今また人々は無関心です。私が驚くのは、このように警告されているクリスチャンが全く無関心であることです。そればかりかそういうことに関心を持つのはいけないとさえ言うのです。(ある兄弟の証言)もちろん私たちは終末に関してだけ関心を持ち、現在するべき仕事や生活をおろそかにしてはなりません。しかし、ノアが箱舟を作っていたとき、人々があざ笑い、結局箱舟に入らないで滅びたように、終末や再臨に関心を持つことをあざ笑うのは同じ事にならないでしょうか。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」マタイ24:3
お弟子さんはイエス様に、世の終わりの前兆を聞いています。それに対してイエス様はそんなことは知らなくて良い、あなた方は福音だけを語っていなさいとは言われませんでした。丁寧に“前兆”をお話になっています。
今、あきらかな“前兆”が至る所にあります。中でも反キリストのしるしは私たちの食卓にまで忍び込んでいます。すべての商品に書かれたバーコードには666と言う数字が隠されていて、終わりのときの「売ることも買うことも出来ない」準備が出来ています。また、第三ローマ帝国の再建を目指すヨーロッパ共同体(EU)はその議会の666番目の議席を空席にして、その席に座るべき人物の到着を待っているかのようです。
今、私たちはしっかりと心の準備をすべきです。
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。マタイ25:1〜12
この有名な物語の娘たちの5人は油を用意していました。しかし、他の5人は用意していませんでした。良く、この油は聖霊だと言われます。だから祈っていればいいのだと。しかし、賢い娘たちが持っていたのは油だけではありませんでした。“賢さ”も持っていました。この場合の賢さとはこれから起こることを予測し、対処すると言うことです。一方、愚かな娘たちは、その時限りの視野しか持っていませんでした。このような賢さを主イエスは賞賛されたのです。前のしもべのたとえでも「忠実な思慮深いしもべ」とあります。さらに、イエス様はこう言っておられます。
いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。マタイ10:16
クリスチャンは素直である前に聡くあることを期待されています。終わりの時に、私たちは賢くない娘や、愚かな僕であってはならないのです。知性と知識と出来る限りの情報を的確に把握して今と言う時代に生きるべきです。クリスチャンはイノセント(無邪気)であるべきですが、愚かでサタンの思うがままにあしらわれてはならないのです。
この反キリストの現れる前に、恐ろしい戦争があると聖書は語っています。それは良くハルマゲドンと混同されますが、私が読む限り独立した一つの大戦争で、それが反キリストの登場を助けると思われます。それはエゼキエル書39〜39章のゴグの乱です。それはまた黙示録のバビロンとも関連すると思われます。私はこの点で多くの情報を持っていますが、あまりにも長くなるので控えます。ただ、それは今年かもしれず来年かもしれません。いずれにしても私たちは賢く聡く思慮深くありましょう。神のシナリオをはっきり読み取り、主の御心を知るために、聖書を通してしっかりと把握しましょう。また、世界の動きに注意しましょう。伝えられるメディアの情報だけが正しいわけではありません。