ホームページ・メッセージ   050703           小 石  泉

旧約聖書事始


 私たちが旧約聖書として知っている書物は今から約3500年前から書き始められ、2400年前に終わりました。最後のマラキ書は紀元前400年ごろに書かれました。不思議なことにほぼその時期に旧約聖書は39巻としてユダヤ人には認められていたのです。いわゆる外典とか偽典というのはほとんどその後、紀元前200年から紀元後100年ぐらいに書かれたものです。最古の正典目録は、後367年復活節のために書かれたアタナシオスと言う人のいわゆる第39書簡です。すでにその頃には旧約聖書は完成していました。
 ヘブル語正典の各書名を記録する最古の証言はキリスト教側にあり、サルデスの監督メリト(190年頃没)の目録にあります。「メリトーンから兄弟のオネーシモスに挨拶をおくります.あなたは御言への熱心から,救い主とわたしたちの信仰全体に関して,律法や預言者からの抜粋をたびたび望み,さらには旧い[契約の]諸書の数や順序について正確な知識を学ぼうとしたので,わたしはそのための労をとりました.わたしは信仰のためのあなたの熱心と御言への探究心を,そして,あなたが永遠の救いのために奮励努力しながら,神への思慕からこれら[の知識]を何よりも重んじていることを知っているからです.わたしは東方に行って[これらの知識が]教えられ実行されている土地に到ったとき,旧い契約の諸文書[の名称や数]を正確に学び,書き取りましたので,[その写しを]あなたに送ります.[諸書の]名称は次のとおりです.」
 その名前が面白いので書いてみます。
モーウセースの五書─『創世』『脱出』(出エジプト記)、『数』(民数記)『レビ人の』レビ記『第2の律法』(申命記)『ナウェーの子イエースース』(ヌンの子ヨシュア)、『審判者』(士師記)、『ルーツ』(ルツ記)、『王国の』の4書(列王記)『省略されたもの』の2書(『歴代志』上・下)、『ダウィドの讃歌』(詩篇)、『ソロモーンの格言』(箴言)『[ソロモーンの]知恵』(恐らく箴言の続き)、『集会を司る者』(『伝道の書』)、『歌々の中の歌』(雅歌)、『ヨーブ』(ヨブ記)、預言者たち─『ヘーサイアス』(イザヤ書)、『イェレミアス』(エレミヤ書)、『12』の1巻本、『ダニエール』、『イェゼキエール』、『エスドラス』、わたしはこれらの書の抜粋をつくり,それを6書にまとめました」(エウセビオス『教会史』W:26:13‐14,秦剛平訳)、ネヘミヤ記はエズラ記(エスドラス)に含まれていたかもしれないが、エステル記が見当らない。
 以上、すこし違いますが大きな違いではありません。このようなことは新約聖書にも見られます。その後、次第に統一されました。
 さて、「新約聖書は旧約聖書に隠され、旧約聖書は新約聖書に現れた」と言われます。
 旧約聖書はイスラエルの歴史です。そこに神様の御意志と御計画が書かれています。イスラエルの歴史をたどることは簡単です。実にほとんど4000年前から正確に判るのです。日本の歴史が2000年前でも神話や土器などの原始的な生活から推測するしかないことを思うとこれは大変なことです。
 しかし、歴史以外の部分、例えば予言に関しては、それは「隠された」書物なのです。中でもメシアであるヨシュア、すなわちイエス様に関しては200以上の予言が隠されていました。それは、一箇所にまとめてあるのではなく、いろいろなところに散りばめられていました。ですから聖書はこう言っています。

それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ。イザヤ28:10(口語訳)

 なぜ隠されたのでしょうか。それはイエス様がたとえでお話なさったことと似ています。

すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。マタイ13:10〜17

「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」この奥義と言う言葉に注意してください。神の国、あるいは神に関することは軽率な人々やよこしまな人々には知られてはならないのです。神の清らかな御性質や事業が穢れた品性や動機によって捻じ曲げられたり、方向を変えられたりしてはならないからです。神殿の前で物を売っていた商売人を鞭で追い払ったイエス様の姿を思い出してください。
「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」
かたくなな人々はどこの国でも同じですね。

イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」マタイ13:34〜35

 もう一つ重大なことが隠されています。それは未来に関する予言です。中でも終末に関することはまるでジグソーパズルのようにばらばらに隠され、その一つ一つも、その時代のことと、それに近い将来のことと、さらに遠い未来に関することとが入り乱れて、ほとんど何が何やら判らない有様です。それで敬虔な人々はそのピース、ピースを集めることを止めて、これは神の御摂理にまかせようと言うのです。しかし、本当に敬虔な思いで尋ねれば、神様は教えてくださるのです。
 私たちは聖書の中に神様が余すところなく現れていると言うことを知っていますが、それは不敬虔な人々にも見えるものではなく、隠れた状態で現れておられるのです。

イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。イザヤ45:15

 テレビドラマなどで見ると、昔、天皇は御簾の向こうに隠されていました。人間でさえそうなら真の神はなおさらです。
「宗教を攻撃する前に少なくとも自分が攻撃する宗教がどんなものであるかを、彼らに知ってもらいたい。もしこの宗教が神についてあきらかな観念を持っているとか、それをあらわに曇りなく把握しているとか言って誇っているとしたら、そんなに明確に神の観念を示すものはこの世にはなにもないと言うことが攻撃の種になるであろう。だがこの宗教は反対に、人々が暗黒の中にあって神から遠く離れており、神は彼らの認識から隠れていまし、聖書の中で自分を呼ぶのに『かくれた神』と言う名すら用いておられると教えているのだ。結局、この宗教はこれら二つのことすなわち神は真心を持って神を求めるものに、自分を知らせようとして、教会の中に明らかなしるしを設けられたことと、それにもかかわらず全心を持って神を求めるものにのみ認められるように、それらのしるしを隠されたということをひとしく確立しようとつとめているのだ。そうだとすれば真理を求めるのに怠慢であると公言していながら、何ものも真理をしめしてくれないと叫んだところで、それが何の役に立つのであろう。」パスカル「パンセ」194 白水社 由木 康訳
 パスカルは一般のクリスチャンの考えとは少し違います。一般には聖書や教会は、神を余すところなく現していると考えているのですが、パスカルはそんなものではないと言います。

聖書には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」Tコリント1:23

 とありますが、それはあくまで霊的な世界であって、実際のこの世の教会を見て人々はそうは思えないでしょう。パスカルはその矛盾を巧みに説明します。パンセは難しいですが一度読んでいただきたい本です。
 旧約聖書の中で不思議なのは預言者といわれる人々です。彼らは人間なのに神の代理人として神の意思を伝えます。たとえは悪いのですが、まるで専属タレントのようです。

まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。アモス3:7

 単なる人間を、これほど信頼されたということは驚くべきことではありませんか。それにもかかわらず、彼らはこの世では決して良い目に会ってはいないのです。エレミヤのようにうとんじられ、憎まれ、井戸に投げ込まれ、ある人々は殺されました。現代の自称大伝道者が大統領や映画俳優と面白おかしく付き合っているのとは大違いです。
 そして、聖書そのものが、「霊感された人間」によって書かれたのです。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Uテモテ3:16

次の言葉は聖書の書かれた様子を語っているようです。

わたしの心はうるわしい言葉であふれる。わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ。詩篇45:1

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。エレミヤ20:9


 聖書って面白いですね。