メッセージ050626          小 石  泉

旧約聖書の神の愛


 新約聖書の有名な言葉の一つは「神は愛である」でしょう。そしてイエス様の生涯は本当にその言葉の通りでした。ところが旧約聖書を読んでいると、神様はいつも怒っているような印象を受けます。特に預言書はそうです。私たちは時々、この神様とイエス様の神様と同じなんだろうかとさえ思うことがあります。そこで旧約聖書から、神様が人またはイスラエルを愛しているという御言葉を捜して見ましょう。
 旧約聖書の書かれたヘブル語で、愛と言う言葉は主に5つほどあります。
ahabah、dod、rayah、chabab、racham(英語表記)ですが残念ながら私にはこの違いは判りません。一番使われるのはahabahの動詞形ahebです。どうもアハブ王は愛と言う名を持っていたようです。大変な悪王でしたが。ダビデは「愛された者」と言う意味ですが、これはdodの変化したものでしょう。(以上、ヤングのコンコーダンスより)
 旧約聖書の中で「神様が人またはイスラエルを愛している」と言う言葉はそれほど多くはありません。人が「主を愛する」と言う言葉のほうが多いようです。
 しかし、実はイスラエルにとって神が自分たちを愛していると言うことは改めて言うまでもないことだったような印象を受けます。そんなことは当然でしょう、という風に感じられるのです。他人が踏み込めない家族の間柄のような関係なのかもしれません。
 愛すると言う言葉は本当の愛のつながりの中ではむしろ言わなくてもいい言葉なのかもしれません。

主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。申命記4:37

 この場所が旧約聖書で最初に神様がイスラエルを愛したと言う言葉が出て来る所です。ここで強調されているのは「選んだ」ということと「エジプトから連れ出した」と言うことです。エジプトは古代社会では比べることも出来ないほど強大な国でした。その国から戦争もしないで民族が独立したのです。これは古代社会では到底ありえない話だったのでしょう。ちょうど日本が日本海海戦でロシアの連合艦隊を破ったようなものだったのでしょう。いや、もっと、重大な出来事だったのです。
 神様はあなたの先祖たちを愛したとあります。アブラハム、イサク、ヤコブのことです。

あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。同7:13

 まだ、神とイスラエルの間には大きな隔たりはありません。無垢な愛が語られています。
主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。同10:15
「恋い慕って、彼らを愛された」とはすごい言葉です。旧約聖書の愛の表現は直接的で新約のように説明的でないことに気がつきます。

しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。同23:5

あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、主のために王とされたあなたの神、主はほむべきかな。あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえにゆるがぬものとされたので、彼らの上にあなたを王として与え、公正と正義とを行なわせられるのです。
U歴代史9:8


あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」T列王記10:9

 このように、旧約聖書では神様はイスラエル民族だけを愛したのでしょうか。そうではない言葉もあるのです。

まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。申命記33:3


 ここでは確かにあらゆる国民が愛されていると書かれています。また一般的に神様が人間を愛すると言う言葉があります。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。詩篇127:2

主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、同146:8

父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。箴言3:12

わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける8:17

主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。15:9


 この他に、雅歌は神の熱烈な愛が語られているのですが、あまりにも多くて引用できません。私の「雅歌霊想」という小冊子をご覧ください。

 預言書は神の怒りが表されていると思いがちですが、実は最も神の深い愛が表されているところでもあります。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。イザヤ43:4

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。63:9

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。エレミヤ31:3


 何という表現でしょうか。具体的で、実際的な言葉です。しかし、あまりにもイスラエルが神にそむき続けるので、神様の愛は次第に悲しみに彩られてきます。

私は愛する者たちを呼んだのに、彼らは私を欺いた。私の祭司も長老たちも、町の中で息絶えた。気力を取り戻そうとして、自分の食物を捜していたときに。哀歌1:19

彼らのすべての悪はギルガルにある。わたしはその所で彼らを憎んだ。彼らの悪い行ないのために、彼らをわたしの宮から追い出し、重ねて彼らを愛さない。その首長たちはみな頑迷な者だ。ホセア9:15

イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。11:1

わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。同11:4

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。同14:4

「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。−主の御告げ。―わたしはヤコブを愛した。「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。−主の御告げ。−私はヤコブを愛した。マラキ1:2


 旧約聖書の中のイスラエル民族への神の怒りは、言い換えればイスラエル民族への神のこだわりとも言えます。非常に好ましくない言い方ですが、神様はくどくどとイスラエルの裏切り、不信仰を愚痴るようにさえ見えるのです。私なら、いっそのこと捨ててしまったら? 何で、こんなひどい裏切りをするような民族をいつまで未練たらしく追いかけるのですか? と聞きたくなります。しかし、もし、神様がイスラエルを捨ててしまったら、はるか昔にイスラエル民族、ユダヤ人は歴史の中に消えて無くなっていたでしょう。
 紀元70年ローマの将軍後の皇帝テトウスは「ユダヤ人は今後パレスチナに住んではならない」という命令を出しました、それ以来、2000年間ユダヤ人は国を持たないのに生き続けてきました。そして1948年、国を再建したのです。やはり神に愛された民族なのでしょう。彼らは痛切な歴史の中で学んだでしょうか。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ゼカリヤ12:10〜14

 いつの日か、恐らくイエス様が再臨されたとき、このようなことが起こるでしょう。先祖たちが十字架につけたあの人が、メシアだったのだ! あのヨシュアがメシアだったのだ! 2000年分の嘆きと涙がイスラエル民族を覆います。彼らは泣き悲しみます。そして神様の愛を知るのです。その日は神様から来る恵みと哀願の霊が彼らを覆います。彼らはあまりの悲しみに誰一人、互いに嘆かないのです、すっかり判っているからです。あの方が、私たちの求めていた方だったと。神の愛とはひとり子なるイエス様に表されているのですから。