ホームページ・メッセージ050619 小 石 泉
王の宮殿と主の住まい
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」マタイ8:19〜20
もう少しイタリヤの話を続けます。イタリヤでいくつかの王宮を見ました。ミラノのエマヌエーレU世の宮殿。ヴェネチアのドウカーレ宮殿。フィレンツエのメジチ家の宮殿。 実は私は王の宮殿というものを見たのはこれが初めてでした。何という豪華絢爛。なぜか天井に絵画と彫刻と金箔で華麗な装飾が施されています。日本のお城を見たことはありますがこれほどのものはありませんでした。どちらかといえばシンプルです。
イタリヤだけでなくドイツにもフランスにもロシアにもこれらに勝るとも劣らない宮殿があることでしょう。歴史上、エジプトやバビロニアなど世界中で王たちは競って華麗な宮殿を造ったのです。私は王たちがなぜこれほどの住まいを持とうとしたのか不思議に思いました。巨大な富を持つと何かに表したくなるのでしょうか。
それに比べて、主の主、王の王であるイエス様は生涯、宮殿には住まず、「枕するところもなかった」のです。30歳までは大工の子、福音を伝え始めてからは漂泊の生涯でした。イエスに従うもの、イエスのために生きるものも同じような生涯を送りました。
彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。マタイ11:7〜11
イエス様はヨハネを「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」と言われました。彼もまた荒野に住み、らくだの毛皮を着て、食物はイナゴと野蜜でした。彼は少女の踊りの褒美として首を切られて死にました。それが、女の産んだもの中で最も偉大な人物の生涯でした。豪華な宮殿、豊かな食事、華やかな衣装、そんなものとは全く無縁の生涯でした。
イギリス王室では戴冠式のときに、国教会の主教が冠を王となる人の上にかかげ、この冠は主が再び来られるときまであなたの頭上にあるようにと祈ります。皮肉といえば皮肉です。金銀財宝に囲まれて、主の僕でいられるでしょうか。もっとも自ら望んで王になったわけではなく、そのような家に生まれた人も居ただろうし、豊かな富の中で敬虔な心を持つことが出来ないとも言えないのです。ヨーロッパの王たちが競って華麗な教会を建てたことも事実です。しかし、主の僕がこの世で期待できるのは違います。
彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。ヘブル11:33〜40
「この世は彼らの住む所ではなかった」のです。では、クリスチャンは貧困に甘んじ、繁栄を求めず、迫害を受け続けるべきなのでしょうか。そうではありません。
あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。箴言3:9 〜10
とありますから、豊かさや繁栄を求めることは悪いことではないのです。むしろ、
なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。6:9〜11
とあるように貧しさは怠惰の象徴とも言われているのです。アブラハムは非常に豊かな人でした。ダビデは大王といわれる人の一人でしたが、生涯、主に忠実で、主を愛し続けた人でした。
わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。
わたしの実は金よりも精金よりも良く、わたしの産物は精銀にまさる。
わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、
わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。箴言8:15〜21
さて、あなたは混乱してきたでしょうか。「先生、前半と後半では矛盾しているではありませんか。」と言われそうですね。こういうことです。私たちは前半のような心構えをしっかりと身に着けるべきです。そしてそれでも主があなたに富と繁栄を与えるなら、アブラハムやダビデのように主を畏れ、愛し、喜びを持って主に仕えるべきなのです。富や繁栄や贅沢をあなたの人生の目的とせずに、豊かさの中にあっても貧しさの中にあっても慎ましく生きるべきです。
ここに面白い二つの御言葉があります。
すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。Uコリント8:2
すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。黙示録18:2
一方は主に喜ばれる極度であり、一方は滅びにいたる極度です。私たちは極度の富も、極度の貧しさも知りません。イタリヤで極度の豊かさと言うものに触れました。インドやフィリッピンの貧民街では極度の貧しさがあるでしょう。そのどちらでも神に忠実な生き方と言うものは、私たちの選択にあるようです。
あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。詩篇84:10