メッセージ050612 小 石 泉
石の家と木の家
記憶する文化と忘れる文化
今回のイタリヤ旅行で、私が一番強い印象を受けたのは、変なことに大聖堂でもカプリ島でもなく石の街でした。ほとんどの都市の中心となる旧市街は堅固な石で出来ていました。新市街にはコンクリートとガラスの建物があったかもしれませんが、私たちはそういう街には行きませんでしたから、それは圧倒的な印象を私に与えました。何だか底力を感じさせるのです。街は何百年という石造りの住宅で出来ていて、所々に千年、二千年という城壁の遺跡が当たり前のように残っていました。私たち日本人は数百年などという住宅には住んでいません。あったとしても神社であったり仏閣であったり特別な建物です。中には数百年という住宅もあるかもしれませんが、ごくまれでしょう。
もし、日本で石造りの家に住んだら湿気でカビだらけになるでしょう。私は2年ほどそんな家に住んだことがあるのでわかります。木の住宅は日本の気候に適しているのです。しかし、日本人の心には歴史を記憶するという意識が薄いのではないかと思いました。何かあっても、水に流す、きれいさっぱり忘れる、いさぎよい、と言うように忘れることが美徳とされます。しかし、ヨーロッパの石造りの街で、人々は、歴史の上に立ち、歴史の中に生きているのです。ところどころに戦勝記念碑、あるいは悲惨な殺戮の記念碑というようなものが立っています。街を掘れば遺跡が出てくるので地下鉄を通すのが大変だといいます。先日、韓国に行ったときも、韓国の記念日がほとんど悲しい日であるのに気がつきました。日本では楽しい日が休日、記念日です。日本人は忘れる民族だと思います。
日本に帰ってきて、電車の車窓から新しいきれいな住宅街を見たとき、映画のセットのようだと思いました。きれいだがあまりにもひ弱に見えました。何百年も歴史のある家に住むと、人はどんな心になるでしょうか。窓は小さく、薄暗いことでしょう。近代的な電化された住まいになるでしょうか。
ヨーロッパ人の信仰もこの石造りの街のようではないだろうかと思います。堅固だが、暗く、伝統に縛られている。最近、ヨーロッパではキリスト教信仰が急速に衰えていると聞きます。ドイツでは日曜日にレジャーやアミューズメントには熱心でも教会に出席する人は10%もないそうです。その一方でサタン礼拝はかつてない繁栄を極めているのです。それはちょうどかつてのイスラエルの姿です。信仰がないのではなく、あるのに背を向けているのです。今、リバイバルが本当に必要なのはヨーロッパだと思いました。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。エゼキエル36:26
神様はその民に新しい命を与え、神を求める飢え渇きを与えることが出来ます。ヨーロッパの人々が真理に目を向けて、神を熱心に求める時がきてほしいものです。そのためには、困難や危機が訪れるかもしれませんが、永遠の命に比べれば何でもありません。
フィレンツツエでメジチ家の城を見ました。非常に驚いたのは、他の城塞が塔や飾り窓や彫刻で飾られているのに、メジチ家の城はまるで現在のオフイスビルのように長方形の全く飾り気のない建物だったことです。町並みを抜けて、城の前に立ったとき、一瞬、あれ! とびっくりしました。あまりにも簡素でした。中にあるものすごい価値の美術品に比べると不思議なほどです。
そして、もっと驚いたのは城から、町中に二階部分を通り抜ける回廊が張り巡らされていることでした。それはメジチ家の当主を刺客から守るためだということでした。しかし、もっと他の目的もあるでしょう。メジチ家は高利貸しで巨額の富を築いたのです。お金を借りに来る王侯貴族が正門から入ったらみんなの目が見ています。回廊のあちらこちらから入れば目立ちません。何のことはない日本の質屋の裏口だと思いました。
かつて中世においてはクリスチャンがお金を貸して利子を取ることは恥ずべきことだとされていました。そこでユダヤ人たちが金貸しとなり巨万の富を得たのです。それがイタリヤではメジチ家であり、ドイツではロスチャイルド家でした。(メジチ家は公にはユダヤ人と認めていませんが、6個の丸の紋章といい高利貸しだったことといい、間違いありません)
イエス様は5タラント、2タラント、1タラントの教えに見るように利子を取ることを認めています。一説には教会に入り込んだユダヤ人たちがそういう教義を造ったとも言われています。
教会は救われた人々に新しい律法を与えがちなものです。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。ローマ3:20〜28
それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。使徒 15:10〜11
神の救いはキリストの贖いによるめぐみによって与えられるという、新約聖書の教えがあるのに、何とかして、律法を復活して、教えの中に入れようとする努力が何百年にもわたって繰り返されてきました。パウロの戦いは決して終わることなく、特にローマで続けられてきました。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。ローマ1:17
ローマのバチカンの石段をひざから血を流しながら登っていたマルチン・ルターに、神が“義人は信仰によりて歩め”という声を掛けられたとき、もう一度、恵みによる救い、キリストの贖いによる一方的な救いの真理が回復されたのです。しかし、それからも律法による救いは何度も何度も信仰を脅かしました。今、ルターの叫びは遠くなっています。ローマ・カトリックの呼びかけによって、宗教の一致、エキュメニカル運動は力を増しています。この中では全ての宗教はその目的とするところは同じだという考えで、どんな宗教でもいいという思想が語られています。救いは唯一キリストの十字架だけです。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。Tテモテ2:5
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」使徒4:12
堅固で融通の利かない信仰であっても、石の家に住む人々は、今は信仰に熱心でなくとも、何かの時には帰って行くところを知っていることでしょう。しかし、その人々が危機のときに帰ってゆく教会が残っているだろうかと心配になりましたが、人々が真理に目覚め、どんな困難な中でも本当の救い主を求めて、迫害をも恐れないで帰ってくることを見たいものです。石の街を歩きながら、私は信仰の深み、不動の信仰を感じました。そうであって欲しいと思いました。何しろ、そこには記憶する文化があるのですから。それは単なる希望かもしれませんが。