ホームページ・メッセージ050605 小 石 泉
見える物、見えない物 −イタリヤ旅行から帰って−
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Uコリント4:18
イタリヤに行ってきました。ミラノに始まり、ヴェローナ、ヴェネチア、フィレンツエ、ピサ、ローマ、ナポリ、カプリ、ローマと盛りだくさんな楽しい旅でした。ただ、結局は至る所にあるカトリックの大聖堂巡りでした。ミラノのウエデイング・ドレスのような大聖堂。ヴェネチアのサンマルコ寺院。フィレンツエの色々な色の大理石で覆われた花の聖母教会。ピサの斜塔の大聖堂。ローマの世界最大のサンピエトロ寺院。よくもまあこれほど華麗で巨大な建物を建てたものだと感心します。しかし、一歩中に入ると、薄暗く、ローソクの火とステンドグラスからの光だけで、荘厳といえば言えますが、不気味でもあります。私は奈良の大仏殿を思い出しました。中には十字架に掛けられた、あるいはマリヤに抱かれたキリスト像。聖人の墓。様々な絵画や彫刻。とりわけバチカンのシステイーナ礼拝堂の回廊の豪華絢爛たる天井絵とミケランジェロの最後の審判の絵。これらのものは本当にすばらしいと思いましたが、それ自体が偶像となり人々の礼拝の対象となるのではないだろうかとも思いました。
キリスト教信仰とは「見えないものを見ること」です。見えない神を見えるもののように思うことです。しかし、あの大聖堂のように、見えるもの ・・・巨大で、壮麗で、人を威圧し、思わず畏敬の念を抱かせる ・・・によって、人は見えない神ではなく、今、そこに見える建物や彫像や絵画に心を奪われて、礼拝して、神を忘れてしまうのではないだろうかと思いました。「見えるものは一時的である」とありますがたとえどんなに巨大な建物でも、例えばバチカンのサンピエトロ寺院でも、その真上で原爆を爆発させれば木っ端微塵に砕け散るでしょう。広場を囲む直径が数メートルもある石柱でさえも砂となってしまうでしょう。このように人間でさえ破壊できるものを礼拝の対象としてはならないのです。
弟子たちが壮麗なエルサレムの神殿をイエス様に指さして注意をうながしたときイエス様は次のように答えています。
そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。(口語訳)
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」マタイ24:2
人は目の前にある現実が、無くなるということを想定することはなかなか出来ません。しかし、イエス様にはその神殿が間もなくローマの将軍テトウスによって完璧に破壊されることを予知していました。イエス様の言葉の通り、37年後の紀元70年エルサレムの神殿は破壊され放火されました。内部を覆っていた金箔が溶けて石の間に流れ落ちたために兵士たちは争って石を覆し、一つの石も他の石の上に乗っていないほどになりました。私はあのような壮麗な大聖堂の前で、人々は昔の弟子たちと同じように心奪われるのだろうと思いました。これはなかなか防ぎがたい人間の弱さだと思います。
神様は地上の大聖堂よりも、私達の内にある聖所、人間の霊に大きな関心を持っておられます。そしてその聖所を覆う建物、すなわち肉の体こそ大聖堂よりも大切な神殿なのです。この体、仮の住まい(仮庵)、幕屋、を永遠の建物、大聖堂に変えてくださるのです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。Uコリント5:1〜4
このような思想は一般の人にはちんぷんかんぷんで全く理解できないでしょう。それこそ「聖霊によらなければ」判らない、永遠の真理なのです。ここにキリスト教と他の宗教の決定的な違いがあります。一言で言えば永遠であるか、一時的であるかです。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(新改訳)
聖書は人間が、人間だけが、永遠というものを知り、考えることが出来ると言っています。それは神が与えられた人間の最も尊い資質なのです。しかし、そのことを忘れ、一時的な快楽に思いを傾け、永遠を思わないとき、人は下品で動物以下のものとなります。
サタンは何とかして人間からこの永遠を思う思いを取り去ろうとします。かつてローマのコロシアムでは剣闘士同士の戦いや、剣闘士と動物の戦いや、水を張って海戦をしたりして人々を熱狂させました。今はハリウッドの映画や、デイズニーランドやゲーム機が一時的な快楽を与えています。こうして人々は永遠への思いを失っています。毎日起こる恐ろしい事件も、永遠を見失った人間のなす業でしょう。
かつて人々は大聖堂に集まり、永遠を思う時を持ったのでしょうか。それとも目の前の壮大なパノラマに目を奪われて、永遠に居ます神を忘れなかったでしょうか。確かに、今よりは人々は永遠を思ったことでしょう。その意味では大聖堂も役に立ったかもしれません。信仰の故に建設した壮大な建造物。華麗な絵画。それらが永遠の神を思うのに助けとなったなら幸いなことです。カトリックの影響力。数億の人々を引きつける魅力。プロテスタントが束になってかかってもマザー・テレサ一人にかなわない“行い”の信仰。
私はサンピエトロ寺院の前に立って、またミケランジェロの最後の審判の絵の前に立って、もしイエス様がここにお立ちになったら何と思われるだろうと考えました。私にはその結論は出ませんでした。ただ、私は永遠の命を持っていることを感謝しました。