ホームページ・メッセージ050522         小 石  泉

パラダイスに入る条件


十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。ルカ23:39〜47

  これはイエス様が十字架にかかった時の有名な話です。十字架は両手両足を木に打ち付けられ、血が減少して衰弱死する最も残酷な死刑でした。普通は何日もかかって死ぬのですが、この日は安息日の前だったため二人の強盗は脚を折られて、大量の出血で死にましたがイエス様はすでにこと切れていました。
 この日、両側に二人の強盗もかかっていました。一方の強盗は苦しい息の下からイエス様をののしり、もう一人はイエス様に救いの願いをしました。彼は生涯を強盗や殺人など恐るべき罪を犯し続けて来ました。十字架という極刑にかかるぐらいですから、それはよほどひどいものだったのでしょう。しかし、彼は苦痛の中で、隣に不思議な人物が居ることに気がつきました。彼はイエス様のうわさは聞いていたのかもしれません。彼のような悪行の生涯ではなく、清らかで美しい生涯を聞いていたかもしれません。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言っている事からもそれは推察できます。
 彼はおよそ善行というに値することは一つもしていなかったことでしょう。いわゆる“ホーリネス=全ったき清め”なんて有り得なかったでしょう。彼にふさわしいのは地獄であって天国ではなかったのです。彼はいわゆる、信仰告白も、罪の告解も、聖霊のバプテスマも、洗礼でさえも受ける時間はありませんでした。しかし、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」といわれたのです。イスラエルでは日没が次の日の始まりです。イエス様が十字架にかかったのは午後の3時ごろですから、春浅いこの季節なら「今日」という日はほんの2時間ぐらいしかなかったことでしょう。彼は十字架からパラダイスに直行しました。一体、この強盗はなぜそんな特権にあずかったのでしょうか。
 彼のしたことはまず、自分が罪人であるということを自覚していたということです。そして自分が十字架にかかっているのは当然だったと認めています。次に、彼は驚くべき告白をしています。それはイエス様が神の子であり、人類の救い主であり、天の御国あるいは地上への再臨によって、全地の支配者になるということを信じていたのです! これは当時の宗教的な指導者の最高の人々でさえ判らなかったことです。
 ここには大きな教訓があります。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。ローマ10:9〜13

あの強盗は、イエス様が神の子であり全地の主であると信じ告白しました。またよみがえることも信じました。そして何よりもイエス様に救いを求めて呼びかけたのです。

しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』使徒2:21

 「誰でも、みな」主の名を呼ぶものは救われるのです。だからあの強盗は救われる条件を満たしていたのです。これが救いの条件、パラダイスに入る条件です。それ以外はありません。何と多くのクリスチャンが自分の功績や、到達した基準によって救われると信じていることでしょうか。
 救いは全く神の側から与えられるものであって、人間には一寸の付け加える余地はありません。私たちに出来ることは、十字架にぶら下がって、死を待つだけのあの強盗のように、ただ御名を呼び求めることだけなのです。
 お気に召そうと召すまいと、キリスト教の救いとはこのように自分を無にしなければ与えられないものです。そんなことは気に入らない、あまりにも他力本願で卑屈すぎる、人間の尊厳がない、と言われるでしょうか。人間にとってもっとも難しいのは自己を失うことです。これほど勇気の要る決断は他にないのです。