メッセージ050508             小 石  泉

種まきの現実


イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。マタイ13:3 〜9

 私は25歳のとき勤めていた日本航空を辞めて、神学校に入り伝道者の道を歩き出しました。それから40年、本当に小さな仕事しか出来なかったなあと思います。しかし、苦労だけは一杯ありました。せっかく導かれて教会に来られた人でも、信仰半ばで道をそれていく人、他の教会を求めて行く人などの背中を沢山見ました。自分の落ち度や、至らなさに幾度泣いたことでしょうか。そんな中でも上の御言葉は本当に真実だったと思います。
 イエス様はここで4つのケースを語っておられます。まず種が蒔かれても鳥が来て食べてしまったというケースです。イエス様のたとえ話の中で鳥はしばしばサタンからの使いを表します。まだごく開拓伝道初期に、ある大学生が来ました。当時は小さな貸家を借りていたのですが、彼は水曜日の祈祷会に来て救われました。彼は本当に救いを理解し、「これは大統領になるより、天皇になるよりすばらしいことだ」と大喜びしました。ところがそれっきり彼は来ませんでした。アパートを訪ねると引き払った後でした。私たちは何が何だか判らずに途方に暮れました。それから数年して、彼から手紙が来ました。それは精神病院からでした。突然、彼は精神を病み、それ以来30数年間病窓にあります。時々、会いに行くのですが、今でも魂は救われているのですが、精神は囚われたままです。これは非常に特異なケースですが、鳥に食べられたケースとしか思えません。
 特に異教や犯罪に深くかかわっていた人の場合、サタンは怒って取り返しに来ます。また先祖代々の信仰や環境も同じようなことが起こります。しかし、十分な警戒と祈りによって回復できるものです。
 また、岩地に落ちたケースも沢山見ました。救いを受けてしばらくは成長するのですがかたくなな心を持ったままで教会を離れて行きます。自我の強い人の場合が多いのです。私たちはクリスチャンとして成長する場合、一度、徹底的に自我を砕かれて、粉々にされ神様の求められる柔らかな土に変えられなければなりません。しかし、それを拒み、決して硬い自我や個性をさらけ出して神様にゆだねることが出来ないのです。豊かな個性や有能だと自認している人の場合こういうケースは非常に多くてどんなにアドバイズしても聞き入れてもらえません。こういう場合、たとえ教会を替わっても表面的には良くても結局同じことだと思います。自我の岩を砕かなければ神のために有益なものとはならないでしょう。私たち伝道者、牧師は不足なものであってもその人々のために心を砕き祈ります。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。ヘブル13:7

 また、いばらの中に落ちたケースも沢山ありました。まず、家族の反対です。配偶者の反対で教会に来れなくなる場合が多いのですが、奇妙なことに今は、夫がクリスチャンで妻がそうでない場合にこういうケースが多いのです。これは日本のような先進国特有のことだと思います。妻の方が家庭では強くて、夫はなかなか自由になれません。男性は会社などの社会的な規律の中で生きています。しかし、女性は夫さえ征服すれば世界に怖いものは無くなります・・・・。こうして男女の権利意識の逆転が横行しています。かつての日本は男尊女卑で女性が大変束縛を受けましたからそれに戻るべきだとは言いませんが、今は逆に行き過ぎていると思います。また、家庭の中で霊的な位置は夫が上であるべきです。神はそう定められたのです。妻がクリスチャンでない場合、こういうことを理解させるのは至難のわざでしょう。しかし、神様の祝福の流れのシステムあるいは枠組みはそうなっているのです。夫がクリスチャンでない場合は、信仰に反対しない限り妻はこのシステム、枠組みが自分の家庭にもあるかのごとく、信じて行動すると良いでしょう。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。Tコリント14:34

 今となってはこの御言葉は強烈なものですが、これは決して変わらない神の言葉です。ホテルなど未信者の結婚式でこんなこと言おうものなら大変です。こういう国は今後どうなって行くのだろうと心配になります。その他、親戚、地域、他宗教などの社会的な圧迫もありますが、これは昔ほどではないようです。
 若い人の場合、異性によって信仰を離れる場合が多いことも心痛むことです。せっかく熱心に通っていても、異性に関心を持ったり持たれたりしてそちらに関心が行ってしまうのです。これについては厳しいイエス様の言葉があります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。マタイ10:37〜38

 神以上に優先するものがある場合、それは偶像です。しかし、まだ若い人々にこれをそのまま適用すべきかどうか私は迷います。信仰は決して強制されてはならないのです。彼らは信仰だけではなく、まだまだ色々なことを学ばなければなりません。彼らが自発的に喜んで神を優先するなら良いのですが、あまり若いときから信仰を強制して狭い視野を持つ人になっても困るのです。しかし、特に若い女性たちが異性に惹かれて信仰を離れてゆくのを黙ってみているのもつらいことです。このような場合、体だけは一人前ですから当然妊娠することがあります。その時になって急に信仰を思い出して、子供を殺すことが出来ないことに気がついても相手の男性は理解しません。そして彼女を去ってゆきます。そんなケースも幾つかありました。また最悪の場合堕胎するとその罪意識で教会には来れなくなります。その後、苦しい記憶にさいなまれる人も居ます。
 彼女たちは結婚し子供が出来て落ち着いたときにはもう一度信仰に立ち戻ることがあるかもしれませんが、出来れば若いときから常に神とともに生きる方がはるかに幸せであることは言うまでもないことです。そして相手が信仰に入ってくれる保証はないし、寛容であるとも限りません。ですから、クリスチャンは第一に信仰を同じくする人と結ばれるべきであることを心に留めてほしいものです。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。Uコリント6:14

 ここに言う不信者は未信者ではないと私は思っています。特に日本の場合、欧米のようにキリスト教信仰が基本的には理解されていて、それでもあえて信じないというのではなく、ただ知らないだけという場合が多いのですから、相手がクリスチャンでなければならないとは思いません。事実、私たちの教会でも男性が未信者のままで結婚し、その後救われて立派な信仰者になったケースもあります。
 若い人々は第一にクリスチャンの異性と出会うことを熱心に祈らなければなりません。そしてクリスチャンでない人とのお付き合いは消極的であるべきです。それでも相手が熱心に求めてくる場合は自分がクリスチャンであることを告白して交際すべきです。あなたを愛するという場合、あなたの信仰から来る人格を認めていなければ必ず後に問題になるでしょう。あせってあなた自身を安売りをしないでいただきたいのです。あなたは「高価で尊い」神の子なのですから。そして年配者、人生の先輩のアドバイズを聞くことです。これはとても大切なことですが、頭に血が上っていると難しいことですがねえ・・・・。
 結局、価値観の問題なのです。よく言われる、血液型の違いなども無視できない要素だと思いますが神を愛するという価値観が一緒ならなんとか克服できるものです。
 さて最後に「良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」とあります。良い地とは柔らかで従順な心のことです。こういうケースは円満な家庭で、両親から正しく十分な愛を受けて育った人に備わっているものです。しかし、私が見る限り、ほとんどの人は成長の過程でどこか傷ついているものです。特に教会に来る人にはこのような傷を負った心の持ち主が多いようです。私はカウンセリングをしているときにしばしばその人の生い立ちを思わずには居られませんでした。そのような場合、まずその傷を癒すことから始めなければならないのですが、これも容易なことではありませんでした。
 お百姓さんは農作物を作るときに、まず土地を造るといわれます。ですから、信仰を教える前にまずその人の心を整えることから始めなければなりません。しかし、まさにそのことが一番難しいのです。それには導く本人が整えられなければならないのですが。
 良い土地には石ころや岩地がありません。農夫はその土地から石や岩を取り除かなければなりません。それには本人が神様に砕かれることを受け入れなければならないのです。プライドを捨てて自我を砕かれ、従順を学んでください。私は戦後の日本の教育がこの従順とか謙虚といった美徳を、全く排除してしまったのではないかと思います。回りが全てそうだと正しいレベルが判らなくなるものです。だから聖書を読んでも説教を聴いても、それを自分に当てはめることが出来ないのです。実りある人生を送るために、神の前にへりくだって歩みたいものです。

というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。UテモテT:7(口語訳)