メッセージ050501 小 石 泉
What are you?
全てのものにはその存在する目的があります。茶碗はご飯を食べるために、時計は時間を知るために作られました。でも、あなたが存在する目的は何ですか?
人間って不条理なものですね。なぜ生まれてきたのか、どこに行くのか判らずに生きています。気がついたら生まれていたのです。物心がついてそれを考えるようになっても、誰もあなたが生まれてきた目的を教えてくれません。聞けば「変な子だ」などといわれます。親も先生も聞くと困ったような顔をするので、いつの間にか「これは聞いてはいけない質問なんだ」と悟って、口をつぐむようになります。“新宿の母”といわれた女性の占い師に時々聞きに来る人がいたそうです。「私って何ですか?」
物質として考えても、どんな精密機械よりも精密なこの人間の体。極限まで有能な知能。こんなすばらしい傑作が、何の目的があるのか判らずに、無駄に費やされ、殺され、時には自ら無くなって行く、こんなおかしな話がありますか?
さらに奇妙なことは、誰も行く先を知らないで生きているということです。私たちはどこかに行くために駅で電車に乗るとき、行き先を確かめないで乗るでしょうか。必ず行き先を確かめて乗るでしょう。ところが人生の行き先は誰も知らないのです。電車に乗って誰かに「これはどこ行きですか」と聞いても、みんな「さあ、知りません、でもみんな知らないからこれで良いんではないですか」というようなものです。そう考えてみると、人生って不条理で、不合理で、危険極まりないものですね。
それでは本当の人生の答えを教えましょう。
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。詩篇100:1〜5
「主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」これがその答えです。
1. この世界には神が居ます。
2. 神が私たちを創られました。
3. 私たちは神のものであり、神に守られ、養われています。
4. だから神をほめたたえるために生きています。
しかし、そんな単純で一方的な解答ではとても納得できないという人も多いことでしょう。確かに、これが分かったら世界に問題はなくなります。人間はみんな幸せに生きることが出来ます。しかし、そうはならないのです。それはこの単純な真理が理解できないから、そしてそれほど人間の心は曲がり、汚れ、腐り切っているからです。
人間は神の愛の対象として創られました。愛によって、愛のうちに。しかし、人間は神の愛を受け入れませんでした。そして罪にまみれました。この人間を御自分の胸に抱きしめるために、神はその罪を清めることにしました。それがイエス・キリストの十字架による身代わりの死です。その血によって罪を清めると決められたのです。ここで言う血とは命のことです。神は神のかたちとして創られた人(アダム)に命を与えましたが、人(アダム)は罪を犯しその命を失いました。そこで神は、本当の神のかたちである御子を第二のアダムとして世に遣わし、その命を全ての人に与えるために十字架に掛けたのです。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。創世記1:26〜27
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。コロサイ1:15
さて、神なんて知らない。そんなものは私には必要がない、という人に会ったことがあります。しかし、悩みのない人が居るでしょうか。嘆きの夜のなかった人が居るでしょうか。悲しみの朝を涙で迎えたことがないでしょうか。そんな時、あなたは誰に向かって、その悲しみを訴えるのでしょう。ここに悩みと悲しみを率直に歌った人が居ます。その人はなんと戦えば必ず勝ったダビデ王です。
悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの
主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。
私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。
私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。
私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。
私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。
私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。
私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。
私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者は私を名ざして毒づきます。
これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。
それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。
私の日は、伸びていく夕影のようです。私は、青菜のようにしおれています。詩篇102:1〜11
私は詩篇を読むときに、あの偉大な王ダビデが、こんなにも苦しみ嘆いた人物だったのかと驚かざるを得ません。そして王でありながらこのような苦しみを包み隠さず、こんなにもあからさまに表現した、彼の率直さに驚くのです。
人は苦しみによってだけ人格の形成がなされます。カール・ヒルテイはこう言っています。「苦しみの鋤は、人の心を深く耕し、神の求める土地を造る」。苦しみだけが寛容、慈愛、善意、誠実、柔和、自制というような資質を人間に植え付けるのです。このような資質は生まれつきあるものではなく、また、苦しみのない人には生まれてこないものです。ヒルテイはこうも言っています。「自ら苦しまなかった人々をどんな悩める者も信頼しない」。
そして、もう一つ私たちが覚えなければならないことは、ダビデにはこのような嘆きを訴える方が居たということです。その方は人の作った空ろな彫刻や、得体の知れない神々ではなく、全地を創造され、今も私たちを生かしてください神です。あなたは何者ですか?そして、あなたはどこに行くのですか? あなたは悩みの日に祈る方をご存知ですか?
今日、あなたを創り、あなたを愛し、あなたの訴えを聞く方を信じてください。