メッセージ050410 小 石 泉
自由・人間の条件
神様が私たちを愛してくださった、ということは判ったと思いますが、では神の愛には人間の自由という大きな前提があることをご存知でしょうか。
まず、考えてみてください。最初の人間、アダムとエバがエデンの園に置かれたとき、神様は善悪を知る木を植えて、「食べてはならない」と命じられました。しかし、人はそれを食べ、罪を犯し、エデンを追われました。その罪は、その後の世界に巨大な影を落としました。では、なぜ神様はそんな木を植えたのでしょうか。「食べてはならない」のなら、植えなければ人は罪を犯さなかったでしょう。人が食べることが判らなかったのでしょうか。それともわざわざ誘惑して試してみたのでしょうか。とんでもない、神様は人を誘惑するような方ではありません。では、なぜ?
もし、エデンに善悪を知る木がなかったら、エデンは平和で豊かで本当に楽園だったでしょう。それこそ神様の御性質「愛」そのものだったでしょう。何しろエデンという意味は「大いなる喜び」なのですから。しかし、人は自分の意志を持たない、未熟なままの、未完成な存在だったことでしょう。
エデンがどんなに素晴しい所でも、神様の意志しか選べないなら、それは奴隷と同じです。人間は神の意志以外のものを選べることが出来たとき、すなわち独立した自由意志があるとき、初めて完成するのです。聖書には「神は愛である」と書かれています。そして、愛は独立した自由意志がある場合だけ成り立つのです。どんな小さな束縛でも、例えばエデンにおいて神様の意志しか選べなければそれは自由意志のある完成した人間には成りえないので、愛は成立しないのです。
神様には人間が自分の命令に逆らい、罪を犯し、不幸になることが判っていたのですが、愛の対象である限り、完全な自由を与えなければなりませんでした。言い換えれば、愛という面においては神様と人間は全く対等でなければならなかったのです。そうでなければ愛は成り立ちません。
ですから、男が女を束縛して、結婚してくれといっても、それは強制ですから愛は成り立ちません。同様に、女性が私と結婚してくれなければ自殺しますと言うのも、同じように相手に自分以外を選ぶ自由を束縛していますから、愛は成り立ちません。
これが愛の原則です。エデンの園の善悪を知る木は人間の自由の象徴です。残酷なことですが、原則は原則です。神以外のものを選ぶ自由があって、人は神の愛の対象となるのです。天使がどんなに優れていても、このような意味では神の愛の対象ではありません。
しかし、人間は罪を犯し、その結果、罪の奴隷となりました。サタンは見事に人間を陥れたのです。人間は罪の奴隷となり、サタンの虜となりました。この人間を救出し自由にすることがイエス様のご使命でした。
さて、私は、日本人はこの自由というものを良く知らないのではないかと思います。日本には目に見えない束縛があります。地域、親類、伝統などなど。ですから本当の自由がありません。これは日本列島という狭い島国に押し込められた江戸時代の鎖国政策から来ているのかも知れません。その典型的な例が、外国でクリスチャン信仰を持った人が、一歩日本の地に足を踏み入れると急激に信仰を失うというものです。これは非常に顕著に現れます。日本でキリスト教が伸び悩んでいるのも、日本人が本当の自由を知らないからではないでしょうか。
自由を持つと、責任が生まれます。共産主義の国々で、職業の選択も、住む地域も国家が決めていたような場合、共産主義が崩壊して自由になったとき、実は人々は大変困りました。今まで束縛され自由になりたいと憧れていたのに、いざ自由が与えられると自分で職業を探し、住む場所や家などの一切を自分の責任で探さなければならないことにとまどったのです。これは東ドイツなので起こったことです。自由は成熟した人間性と責任が伴うのです。人間の弱さは自由よりむしろ束縛される方が楽であり、安心なのです。ですから本当の自由を得るには、しっかりとした自己の確立と信仰が必要です。
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。ヨハネ8:32
自由は真理を知ることによってだけ獲得し、使用することが出来るのです。自由は人間の最高に気高い財産です。では真理はどうやって獲得できるのでしょうか。一番判りやすい方法は、哲学や数学ではなく、イエス・キリストを迎え入れることです。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6
そして、そのことをイエス様は保障しています。
だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。ヨハネ8:36
さらに、神の霊によって自由はさらに保障されます。聖霊は自由を与えるのです。ところが聖霊の御名、イエスの御名によって自由が奪われることもあるのは悲しいことです。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。Uコリント3:17
非常にしばしば、人間にとって貴重で絶対に不可欠な自由は奪われます。教会においてさえそれが起こるのです。
それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。ガラテヤ2:4
教会は自由な場所であるはずなのに、いつの間にか束縛と圧迫による奴隷を生み出す所となります。いわゆる教会がカルトになってしまうことがあるのです。
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。ガラテヤ5:T
くびきというのは牛がものを引くときに首に掛けて引くための木製の道具です。奴隷も手かせ、足かせ、首かせ、をつけられて運ばれました。私たちをこのような姿にするのはサタンです。しかし、キリストは私たちを永遠に解き放ってくださいました。 さて、しかし、ローマの時代に「自由奴隷」というものがありました。それは解放される時が来ても、今仕えているご主人が大変立派で良い待遇をしてくれるとき、一生あなたに仕えさせて下さいと、自発的に願い出て奴隷のままでいる人のことです。そのような奴隷は耳たぶに穴を空けられピアスをしました。このような奴隷を持つことはその主人にとって大変名誉なことでした。私たちがキリストに従うときも、束縛や強制ではなく自発的に決定することが重要です。
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、
肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。ガラテヤ5:13
私たちは自由を得るために神に召されました。その自由を神との関係だけではなく、互いに仕えあう愛の奉仕に向けるべきです。
自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふ
さわしく行動しなさい。Tペテロ2:16
自由は人間の最高の権利ですが、扱い方によっては危険なものとなります。自由は諸刃の剣です。何でもして良いというのではありません。自由には責任が伴います。神の僕にふさわしく」と規定されています。自由人であるということは成熟した人間であるということです。愛という分野においては神と人は対等でなければなりません。愛は少しでも優劣の差があっては成り立たないからです。ですから神と人は対等です。それは十分に成熟した人間にだけ許される地位です。もちろん神には哀れみがあります。人は哀れみの故に許されるのですが、神の期待は、対等の関係なのです。それはアブラハムを「友」と呼んだり、モーセを自分の代理人としたように完全な信頼を置くことです。 自由であること、それが神との愛の関係において究極の秘訣なのです。