メッセージ050410           小 石  泉

神の愛と許し


*あなたは愛されています
 私は多くのクリスチャンが、本当に神が自分を愛しておられるということを知らないのではないかと思います。クリスチャンは一般に神がどれほど自分を愛しているかを理解する前に、神の義や清さへの恐れによって、自己嫌悪や恐れを持ってしまうものです。まず、神が自分を愛しておられることを徹底的に理解し体得なければなりません。
 雅歌全編は驚くばかり綿密に神の愛を書いていますが、神がこのように人を愛するなんてことは有り得ないと思うから奇妙な恋愛小説のように受け取られかねません。しかし、今日は取り上げません。それだけで二日ぐらい必要だからです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4 新改訳                           
 神様の目にはあなたは高価で尊いのです。それは、ちょうど私たちが赤ちゃんを見るとき大切で貴重なものに見えるようなものです。可愛くて、可愛くて、たまらないのです。愛らしくて、愛らしくて、たまらないのです。幼子が「僕のお父さんやお母さんは僕のことを愛しているだろうか」などと心配するとしたら、その家庭は問題です。子供は疑いもなく自分の親が自分を愛していると信じているものです。ところが多くのクリスチャンはこのような信仰を持っていません。まるでお父さんの顔色をうかがう、いじけた子のように信じています。ダビデはそのように幼子のような絶対的な信頼のゆえに、大きな失敗にもかかわらず神に最も愛された人となったのです。
 そういうとほとんど瞬間的に、「でもね」という答えが返ってきます。「でもね、神の峻厳な御性質にも心を備えなければなりません。神の義に目を向けなければなりません。」それは判ります。しかし、あなたは本当に神の愛を味わい知ったのですか? まるでお父さんの愛に触れる前に、厳格なお小言を聞かされる子供のようではありませんか。神様はそんな方ではありません。神の御性質は「愛」なのです。私はほとんどのクリスチャンがこの神の愛を知らないで、神の義だけを聞いているのではないかとさえ思います。
 では、神様はどれぐらい人を愛しているのでしょうか。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 「ひとり子を賜った。」端的に言えば十字架で殺した。身代わりの犠牲として。それが、神があなたを愛している愛です。その御心を実現するために、あなたのために死んでも良いとイエス様は言われ、そして本当に死なれたのです。なぜ? あなたを愛しているからです。あなたが永遠の滅びでは無く命を受け取ってほしいからです。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ15:13

 これよりも大きな愛はない。これは口語訳聖書の方が良いですね。最も大きな愛。これ以上ない愛。イエス様は十字架にかかる前に弟子たちを愛されました。

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。ヨハネ13:1

 この箇所は昔の文語訳では「極みまで愛された」となっています。どんな愛でしょうか。そして、その愛は今も続いています。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。ヨハネ15:9

 神と御子の愛はどんなものなのでしょうか。宇宙の創造者は「愛」という方です。「無」とか「獏」とか「混沌」とか、ましてや「悪」とか「憎悪」ではないのです。広大で深遠で限りなく親密な愛です。私たちはそのような愛を想像することすらできませんが、やがて御国に行ったとき、目の当たりにするでしょう。そのような愛をもって私たちを愛してくださっているのです。
私は一般的にクリスチャンの神の愛への理解は非常に浅薄なのではないかと思います。もちろん私たちにそのような愛が本当に理解できるわけはありません。しかし、「これで良し、全部知っている」としないでいただきたいのです。少なくとも「理解を超えています」という態度を失わないでいただきたいのです。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。Tヨハネ4:10

 私たちが神を信じ、神に従おうとするのは、神が最初に私たちを愛してくださったからです。もし神が私たちに無関心であったり、憎んでいたりしたら、信じる必要はないし、恐怖心でいやいやながら従う奴隷のような関係になるでしょう。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さっ」たのです。不思議なことです。これがキリスト教という宗教です。ユダヤ教の場合「愛した」という言葉より「選んだ」という言葉が優先されますが、やはり「愛した」ことに変わりはありません。

それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。ヤコブ4:5

神の私たちへの愛はねたむほどの愛だとあります。この所は、日本語訳でははっきりしませんが英語のKJVでは"The Spirit who dwells in us yearns jealously"? とあって、「私たちの内に住まう聖霊がねたむほどに慕っている」という意味になります。
雅歌には次のような言葉があります。

わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。8:6〜7

 神の深い愛がわかるでしょうか。神を敬い畏れることは人間として当然のことで、今のように、神を畏れるなんて馬鹿らしいというような考え方は人間と社会の破壊につながることは現在の惨状を見れば言う必要もないでしょう。しかし、なぜ神を畏れるかというと、神がまず私たちを愛してくださっているからです。

*あなたは許されています
 特に日本人にとって神に許されなければならないということが判らないかもしれません。日本の神々の場合、神に対して罪を犯すという考え方は無いように思います。罪の清めとは、強いていえば神社の拝殿の前にあるみそぎの水がそれに当たるかもしれません。神の前に出るとき、身を清めるといった程度です。しかし、聖書の場合、神は絶対的に清く、正しいお方です。そして人はアダム以来、罪を内に持っていると聖書は言います。そして事実、私たちは大なり小なり罪を犯し続けて生きています。 私たちが神の前に出るとき、第一に感じるのは強烈な神の清さです。これは経験してみないとわかりません。神の前に出るといっても、普通に祈るとかではなく本当に霊的に神の臨在に触れた経験です。私は若い頃一度だけそのような経験を持ちました。私はその清さに圧倒され、自分が木っ端微塵に吹き飛ぶか、あるいはドライアイスのように蒸発すると思いました。私は思わず大声で「主よ、それ以上近づかないでください!」と大声で叫ぶのがやっとでした。
 私たちの罪は自分で償うことが出来るものと出来ないものがあります。人に対する罪は償うことが出来ますが、神に対する罪は許していただくしかありません。そして聖書は、罪は許されるといっています。聖書はどうしたら罪が許されるかという書物なのです。

すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。マタイ9:2

 イエス様は当時の人には全く予想外の言葉を発せられました。「あなたの罪はゆるされたのだ」。これは誰が聞いても大変な冒涜の言葉でした。神以外に人の罪を許すことは出来ないからです。しかし、イエス様は神だから当然のことでした。今なら判るのですが、それを当時の人々に理解せよといっても無理だったことでしょう。この時、イエス様は中風の人の信仰に対して罪の許しを宣言されたのです。イエスを求める人の罪は許されます。

そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。レビ19:22

 これは旧約聖書のレビ記で神の神殿であった幕屋と祭司の勤めが書かれている箇所です。その中心は罪の許しでした。旧約聖書の特にレビ記は難しい儀式の退屈な記述があるところですが、その目的は罪の許しなのです。言い換えれば「罪は許されるもの」であり、「許されるしかない」ものなのです。

わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。詩篇32:5 

 罪の許しの条件は、へりくだって神の前に出て行くことだけです。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。詩篇130:4

 神は罪を許す方です。サタンは許さず、責めたてるのです。詩篇の記者は許すという神の正義が人に神を畏れ敬わせるといっています。(畏れるという言葉は、恐れるとは違います。敬いつつへりくだることです。)

しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。Tヨハネ1:7

 神の光の中を歩み続けましょう。そうするなら“全ての罪”は清められます。キリストの十字架の贖いは完全で、そこに付け加えなければならないものは何一つありません。あなたの救いは2000年まえのゴルゴタで完成しているのです。神の子羊は犠牲となられてあなたの罪は許されました。それは神の側の努力によるもので人の努力によるものは何一つありません。そうでなければ私たちは救われません。ただ信ずるだけ、それを自分のものとして受け留めるだけ。それしか出来ないのです、私たちには。