ホームページ・メッセージ    050327          小 石  泉

イエスの死体のミステリー


 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。マタイ28:5 〜15

 「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。」天使たちのこの言葉は弟子たちを驚かせました。イエスは復活した! 
 この日、イエスを十字架にかけた勢力、ユダヤの祭司たち、ローマの官憲は実に奇妙な行動をしています。今なら職務怠慢として訴追されかねません。まず、はっきりしていることは墓の封印が破られたということです。次に、死体が無くなっていたということです。当時、ローマの封印を勝手に破れば死刑になりました。また一個小隊が守っている墓から死体を運び出すなんて弟子にはできるはずも無かったのですが、無くなったのです。この二つだけでも警備に当たった兵卒たちは重大な責任があります。
 この朝、地震が起こり、天使が現れ、巨大な(ロン・ワイアットさんによると直径4メートルもあったといいます)石の扉を投げ飛ばしました。兵卒たちは気絶しました。そして気がついたときにはおびえて祭司長たちに報告に行きました。祭司長たちは「弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」と言ったとマタイは書いていますが、これはまた一層不可解な言葉です。本来ならば「何を馬鹿なことを言っているか、すぐに弟子たちを逮捕し、死体を取り戻せ」というべきです。ところがこの日以来、今に至るまでイエスの死体を捜索するという行為は一度も行われなかったのです。
 今、世界では多くの古代遺跡の発掘が行われ、エジプトの王族はそのミイラがほとんど誰かということまで判っています。弟子たちが盗んだイエスの死体はどこかの無縁墓地にでも眠っているのでしょうか。弟子たちは先生の遺体をそんなに粗末に扱ったのでしょうか。最高の敬意を払ってしかるべき場所に埋葬したのではないでしょうか。そしてそこは偉大な教祖の墓として多くの参拝者を生み出したのではないでしょうか。その死体の骨を分骨して世界中にイエスの舎利塔が出来たのではないでしょうか。なぜ、世界のどこにもキリストのためのメジナ(マホメットの墓がある)やアンコールワット(仏陀の舎利塔)はないのでしょうか。
 ある人々は、だからキリストなんて初めから居なかったんだ、と言います。やれやれです。あの世界最大の壮大な物語は全て架空の話ですか。世界でもっとも有名な4つの伝記はお互いに示し合わせた架空の人物の創作物語ですか。4人がそれぞれの個性を生かし、似たような物語を少しだけ変えて書いたのですか。福音書はもし創作なら全く違った物語になるか、全く同じ物語になるはずです。聖書は同じ時代の書物に比べて数千倍の確率で正確に残存しています。他の書物はわずかな断片や、不完全な写本が残っているだけです。
 アレキサンダーやナポレオンのためになら、今、命を捧げるという人は世界に何人居るでしょうか。しかし、イエスのためなら命を捧げるという人は今でも世界中に数十億人居ます。なぜアレキサンダーが現実でキリストが架空なのでしょうか。証拠ははるかに多いのです。
 ただ、一つだけ私も疑問に思うことがあります。なぜキリストは復活の後に弟子たちにだけしか現れなかったのでしょうか。なぜエルサレムの神殿にでも現れて、人々をあっと驚かせることをしなかったのでしょうか。実は私にもこれが判りません。そうすれば何の疑問もなく人々は信じたでしょう。神様は決定的な結論を示さないで舞台から去ってしまわれたように思われるのです。結局、人は信仰によってだけキリストの復活を信じるしかないのです。上に書いたような多くの疑問と証拠がありながら、最後は信仰なのです。それがキリストの第一幕です。そして最後の幕まで結論は取って置かれます。キリスト教とはまだ完結していない宗教なのです。それは神様が信仰によって神を見出すというシステムを採用されたからです。やがて最後にキリストが現れるときには信仰は現実となります。それまで、信仰とはヘブル11章1節の御言葉の通りなのです。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
 もしあなたがクリスチャンで、神様が判らなくなったとき―そんなこともあるでしょう―イエス様の墓の前に行ったと考えてください。そしてキリストの体が今どこにあるか考えてみてください。エルサレムの墓にはありませんでした、では、地上のどこかにイエス様の墓があり、そこにキリストの骨があるのでしょうか。復活は幻想に過ぎず、キリストは普通の人と同じように朽ち果てたのでしょうか。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネ11:25〜26

 この、どんな人でも言ったことのない、驚くべき言葉を言った方は、ご自身が復活されたのです。復活は私たちの希望です。キリストの死体が無かったようには、私たちの死体は無くなりません。死んで火で焼かれ、埋葬されます。しかし、新しい体によみがえるのです。キリストとはちょっとプロセスが違います。

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
Tコリント15:51〜52


 私の知人の牧師の父親が死に、火葬場に行きました。その時、まだ幼かったその先生の子供さんが泣き出したのです。「僕いやだ、死んで焼かれてしまうの、怖いよ、怖いよ」奥さんは困って、神に祈ったそうです。するとその子は寝てしまいました。間もなく目覚めると元気よく「ママ、もう怖くないよ、おじいちゃんはちゃんと生きているよ、僕は見たんだ。イエス様と天国に生きているよ。」
 そうです、ちゃんと生きているのです。それがよみがえりの命なのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。ピリピ3:21

 キリストの復活のように、私たちも復活します。それがクリスチャンの希望なのです。イエスの死体のミステリーは希望のミステリーです。