メッセージ050227                小 石  泉

この人による以外に救いはない


 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒4:12(口語)

 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(新改訳)


 何と大胆で、何と力強く、何と広遠な言葉でしょうか。人類を救う人はこの人、イエスキリスト以外にはないと言い切っているのです。釈迦でもない、弥勒菩薩でもない、マホメットでもない、この方だ。日本人の中にはこの言葉に反発を感じる人も居るのではないでしょうか。むしろ反発してほしいものです、無関心であるよりは。
 一体、救いとは何でしょうか? それは人間が人間であることの意味を知ることです。私は長年の経験から、日本人に罪からの救いという概念を教えることの難しさを痛感しています。神が居ることは認める、しかし、何で人間が神に謝らなければならないのか。ほとんどそんな感覚です。だから罪を強調する前に神との接点、そしてその結果、人間本来の存在理由を見つける方が早道のように思います。
 ペテロは私たちに生きる意味を与え、神との関係を回復させることができる方はこの方しか居ないと断言しました。イエス様は単なる善人でもなく、悟りを開いた聖人でもありません。彼こそは神と人とを結びつけ、人間が本来あるべき姿、創られたものとしての位置を確認することができるのはこの方による以外にはない、と言ったのです。これは人間の知恵や哲学から生まれたことではなく、聖霊による言葉です。
 さらに聖書はこう言っています。

 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。Tテモテ2:5(口語)

 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(新改訳)


 神と人とを結びつける方はたった一人キリスト・イエスだと。人間はそのままでは神に帰ることができず、イエス・キリストの十字架の犠牲を通してだけ帰ることができます。この仲介者という思想も日本ではなじみがありません。弁護士も最近でこそ一般的になりましたが、日本にはあまり必要のない職業でした。神と人との間になんで仲介が必要なのか。日本人はダイレクトに神や仏に接触します。仲介者が必要な神なんて、何て水臭い。考えてみると日本人にとってキリスト教というのは難しい宗教ですね。
 しかし、ユダヤ人の考えからいえばこれは至極当然な話です。人は羊の犠牲を通してでなければ神の前に正しいとされなかったからです。聖書ではそれを「義とされる」と呼びました。この漢字の「義」という言葉こそキリスト教を表しています。羊の下に我と書くのですから。私たちは本当の子羊、永遠の子羊イエスの下に我を置いて、神の前に義とされるのです。全ての国、全ての歴史を通してイエス・キリストだけが人を救う方であり、ご自身が神であって神と人との仲介者です。
 この方に関して、聖書はいろいろな角度からその姿を表そうとしています。

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。イザヤ9:6〜7

 ここを英語で読むと日本語より判り易い気がします。「Wonderful Counselor, Mighty God, Everlasting Father, Prince of Peace」 この場合のWonderfulは「不思議な」という意味です。また「力ある神」と、神と等しいことがすでに700年前から言われていました。また「永遠の父」とは父なる神を思わせる言葉です。しかし、イザヤは三位一体を表そうとしたのではなくイエス様の永遠性を表そうとしたのです。しかし、どんな言葉もイエス様の卓越した本質を表すことは不可能でした。

 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」黙示録22:12〜16

「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」「ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星」ここでもヨハネはイエス様の真相を何とかして言葉にしようとしていますが、どんな言葉もそれを表すことは不可能だったのでしょう。

 さて、終わりの時代になると、キリストの偽者がたくさん現れると聖書は言っています。

 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。マタイ24:4〜5

 統一教会の文鮮明は、最近、アメリカのワシントンでの儀式で「地上の救世主にして救い主」Messiah and Savior of the Earthと讃えられました。その集会には多くのキリスト教の指導者が出席していました。その中には「レフト・ビハインド」という本を書いた著者たちも居たといいます。私はこの本が出たときから非常な警戒心を持っていましたがアメリカでは600万部を売り、日本でもいのちのことば社が大々的な宣伝をして売りました。文鮮明は「わたしの名を名のる大勢のもの」の一人に過ぎませんが「多くの人が惑わされ」ています。
 惑わされない方法は「あの方」をしっかりと見ることです。「あの方」はもう一度帰ってくると言われました。帰ってくるのは「あの方」で、別の人ではありません。「あの方」は歴史上ただ一人で、他の姿をとって来るのではありません。今度こられるときは雲に乗って来ると言われました。前のように赤ちゃんとして生まれるという経過は通りません。

 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」使徒1:10〜11

 あの方をしっかりと見たのは使徒ヨハネでした。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(中略)すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ1:1〜14

 私はここを読むといつもわくわくします。ヨハネが何とかして伝えようとしたイエス様のお姿。今、私たちはこの記述以上のイエス様のお姿を知りません。しかし、まもなく私たちはあの方に出会うでしょう。その姿はヨハネが見たもう一つの姿かもしれません。

 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。黙示録1:12〜18

 実はこの方が本当のお姿なのかもしれません。しかし、私は出来ることなら最初においでになった、「柔和で心のへりくだった」イエス様にお会いしたいものです。そうでないと私など永遠に気絶して目覚めることもなさそうですから。