メッセージ050213             小 石  泉

人生はリハーサル


 私は64年間生きてきて、今ほど悲しみに満ちた世界を知りません。戦争もありました、革命も見ました、しかし、平和な社会の真っ只中で、11ヶ月の赤ちゃんにナイフを突き立てることは、考えも及ばないことでした。奈良の梢ちゃん事件も、あまりにも悲しい事件です。毎日、毎日人が殺されています。私はこれらの事件によって殺された人々の人生ってなんだろうと考えます。人生は一回きりの本番なのでしょうか。そうだとするとあまりにも理不尽、不条理ではありません。
 昔は良く「天寿を全うして」という言葉を使いました。長生きした方の死に対して言われたのです。では、途中で死んだ人々の天寿は何だったのでしょう。人の死は悲しいものですが、恐ろしい事件に巻き込まれて死んだ方々の親族の悲しみはどれほどでしょうか。
 私はこのようなことを考えると、人生って本番の前のリハーサルなんじゃあないだろうかと考えます。いや、そう考えなければ頭がおかしくなりそうです。長生きして大往生した方やその親族は納得も行くでしょう、しかし、生後11ヶ月の翔馬ちゃんがナイフを突き立てられて死んだとき、その御両親はどうしたら納得できるのでしょう。人命は地球よりも重いなどという言葉はちゃんちゃらおかしいと思うでしょう。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
へブル9:27


 ここに一度死ぬとあるように、聖書は明白に、この人生がこれで終わりではなく、もう一つの命があることを語っています。裁きという場合、悪いことを連想しがちですが、この裁きは善と悪を裁くわけで、善という判決が出ることもあるわけです。11ヶ月で死んだ赤ちゃんにどんな悪があったでしょうか。その赤ちゃんと、殺した男とに同じ判決が出るはずはありません。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイ10:28

 ここにも人間の人生はこれだけではないという思想が現れています。ここでは体のいのちと、魂のいのちという二つのいのちがはっきりと言われているのです。そしてたとえからだのいのちを失っても、それよりももっと大切ないのちがあることが判ります。この場合は罪深く、悪に裁かれた人の、第二の人生の行き場所が語られていますが、その反対に善に裁かれ神に受け入れられた人の第二の人生も暗黙の内に語られています。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。へブル11:16

 「さらにすぐれた故郷、天の故郷」とは明らかにもう一つの人生が今よりも優れたものであることを意味しています。
 イエス様のお言葉はいつも、さらに確実で、さらに美しく、さらに幸いな人生の予感で満ちています。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。マタイ16:26
 いのちを買い戻す? 何のことでしょうか。死んだらお仕舞いだ、と思っている人には奇妙な言葉としか思えないでしょう。ここにはまことのいのちという言葉があります。ではまことでないいのちとは何でしょうか。イエス様は今の、この世のいのち、人生を言っておられるのではないでしょうか。もっと豊かになりたい、もっとブランド品を買いたい、出来ればデパートを丸ごと買いたい。それでも満足できないでしょう。人間の欲望には限りがありません。しかし、たとえ全世界を自分のものにしたとしても、死んでしまったらその持ち物は何になるのでしょうか。持ち物はいのちを救いません。
 もっともっと大切なもの、失われないいのちがあるのです。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ9:24

 イエス様による新しいいのちを持つとき、いのちを買い戻すことが出来るのです。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
黙示録20:11〜15


 ここには第二の死という言葉があります。それは「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉と関連しています。全ての人は神の御座の前に出て裁かれるのです。そして「いのちの書に名のしるされていない者はみな」火の池に投げ込まれます。しかし、私たちは「いのちの書」と言われているものが何であるのか正確には知りません。人は罪の中に生まれてくるとダビデは言っていますが、実際に罪を犯すひまもなく死んだ11ヶ月の赤ちゃんまでが火の池に投げ込まれるというのも、不合理ですし、神様の御性質に合うとは思えません。聖書は「神は愛である」と言っているのです。火の池に投げ込むことが好きでたまらないとは書いてありません。
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。マタイ10:42
 イエス様を信じていない人で、クリスチャンに水一杯でも飲ませて「決して報いに漏れることがない」と言われた人が火の池に投げ込まれるのでは理屈に合いません。
 終わりのとき、イエス様が再び来られて、全ての国民が集められ、その行いにより羊と山羊とに分けられるとあります。

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。マタイ25:31〜33

 この内の羊に分けられた人たちは「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」と言われます。
 一方山羊に分けられた人は

「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」

と言われます。もし、この中にクリスチャンがいたら、イエス様の十字架は無駄だったのでしょうか。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。」ヨハネ3:17〜18

と言う御言葉は何の意味があったのでしょうか。
 ここでイエス様は「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と言っておられます。「わたしの兄弟」とはイエス様がお弟子さんたちに言った言葉です。それはクリスチャン全てに当てはまります。ここには三種類の人々がいるのです。羊グループ、山羊グループ、わたしの兄弟。
 さて、そうするとイエス様の弟子でなくとも「御国を継ぎなさい」と言われていることになります。これは大変だ。神学的に問題だ。しかし、事実そう書かれているのです。
 こうして聖書を良く読んで見ると、どうもこの世だけで全てが決まるわけではなさそうです。では、なぜイエス様ははっきりとそう言わなかったのでしょうか。それは、もしそういえば人間は、その後のチャンスを期待して、現在の人生をおろそかにする可能性があるからではないでしょうか。聖書にはこの人生がリハーサルだとは書かれていません。また死後にも救いのチャンスがあるともはっきりは書かれていません。ですからここで新しい神学を作ってはならないのです。しかし、それにもかかわらず、現実の社会の理不尽、不条理から、そして聖書のかすかな暗示から、どう考えても私たちの今の人生は「まことのいのち」のためのリハーサルだと思われ、救いのチャンスはもっと綿密なご計画によって張り巡らされていると思わずには居られません。
 「天網魁々粗にして漏らさず」(てんもうかいかいそにしてもらさず)と昔の人は言いました。天の摂理は粗く見えても遺漏は無いと言う意味です。結婚式でもお芝居でもリハーサルは大切です。本番はやり直しは利きませんが、リハーサルは何度でもやり直して、欠点を直し本番に備えることが出来ます。クリスチャンだけでなく一般の人々にもその機会があるようにと祈らないでは居られません。