ホームページ・メッセージ   050123       小 石  泉

杜 子 春


 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。マタイ10:34〜42

先日、中国に行ったときのこと、私は「長春」という名前から、漠然と少年のころに読んだ芥川龍之介の「杜子春」(とししゅん)を思い出していました。実際には「唐の都洛陽」でしたから全くの思い違いであったわけですが。
 あの名文をほんの数行に凝縮するのは、芥川龍之介に申し訳ないのですが、話をはしょると、杜子春は仙人になろうとして仙人から試験を受けます。その試験はどんなことがあっても声を出してはならないと言うものでした。彼は恐ろしい怪物や怪人、天変地異の幻にも、閻魔大王の威嚇にも、鬼の折檻にも耐え抜いて一言も発しませんでした。しかし、馬に変えられた両親が現れて、打ちたたかれ、母親が「私たちはどうなってもいいから、お前はがんばるんだよ」と言われたとき、ついに「お母さん」と叫びます。一瞬の内に、全ては終わり、彼は洛陽の町に立っていました。仙人は彼に家屋敷を与えて去ります。
 私はこの物語を鮮明に覚えていました。そして大人になってクリスチャンになったときに、これは上の聖書の御言葉への挑戦あるいは反論ではないかと思いました。親を捨てるとか、親よりも自分を愛するものとか、キリストはけしからんと言うわけです。その可能性はないとは言えません。奥村実先生の「漱石、芥川、太宰と聖書」と言う本も参考になります。芥川龍之介が自殺したとき、その枕元に聖書が置かれていたのは有名な話です。彼の著書を読むと、いわゆるキリスト物といわれる、キリスト教との格闘のような時代があります。しかし、彼はついに真理に到達することなく終わりました。誰かがもっと上手く福音を伝えていたらと残念に思います。
 実際に上の言葉は困った言葉です。特に日本のように親子関係が親密な国では、とんでもない言葉だと思われることでしょう。多くのつまづきもあったことでしょう。そして、ここは牧師が説教するのに苦労する場所です。
 イエス様は時々、ずばりと言葉を発せられました。「お前たちはまむしの末だ」「平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」。もうちょっとソフトに当たり障りのない言葉で言ってくれないものだろうか・・・・・。我々凡人はあわてふためくのです。イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と言われたのではないですか? それが「争いをもたらすために来た」と言われます。どうしてでしょうか。
 この箇所は迫害について警告している場所です。「狼の中に羊を送り出すようなものだ」という話の続きなのです。そして確かにそういうことは歴史上、無数に起こったのです。イエス様はここで最悪の事態を言って、そのための心の防備を固めるように言っているのです。もし、何の警戒心もなくただ鳩のように無邪気なままでこの世に出て行ったら、サタンの思うがままに打ち負かされ、ひどい目に合い、ぼろぼろになって信仰も何もなくなってしまうでしょう。だからあらかじめ警告を与えてあわてないように教えておられるのです。子供を送り出す母親が、あの交差点では気をつけなさい、あそこには怖い犬が居るからね、というのと同じです。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。Tテモテ5:8

 上のネガティブな言葉とこの言葉は矛盾するように見えますが、こちらが本当のイエス様の御心と思って差し支えないでしょう。上の言葉は緊急事態への備えであって、この言葉は日常の心構えを言っているのです。
 ところが若い人で、上の言葉を文字通りに受け取って、親と敵対したり仏壇を壊したりすることがあります。私はいくつかのケースを経験してきました。しかし、もし冷静に信仰を求めるなら、たとえ一時は対立や離反が起こっても、何時かは信頼と愛が加わるものです。いつも言うのですが、神様を押し付けても人は信じません。神を表すことが必要です。あなたの中に、他人が信じたくなるような神の姿が現れることが大切なので、他人の信仰を否定したり攻撃したり議論したりしても決して人は救われません。「ああ、あなたの信仰する神様を教えてください」と言われる事です。これは口で言うのは簡単ですが、実現するのは難しいですね。議論したり攻撃したりする方が簡単ですからね。
 私の親しいY・K先生は京都大学4年のときに大学を辞めて献身しました。有名な大学でしたから両親の失望は大きく、何も手がつかずに温泉めぐりをしていたそうです。しかし、いつしかご両親は教会に導かれ熱心なクリスチャンになられました。また別の友人のU・K先生も東大を卒業後、大きな企業に勤められましたが、そこをやめて献身されました。しかし、結局、お父上はその遺書に「Kを中心に兄弟仲良くせよ」と書かれたそうです。そして家屋敷はU・K先生に遺されました。こんな話は無数にあって、クリスチャンは、一時は親に理解されなくて勘当されたり、うとんじられたりしても、結局、一番信頼できるのはお前だと言われるようになるものです。
 それはそうでしょう。イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたのですが、私たちにとってもっとも身近な隣人は家族です。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」とあるように、水一杯どころか、オムツを換え、食事をさせ、学校に送り出し、洗濯し、熱があれば病院に、晴れの日にはそれなりの衣装や祝いをしてくださった両親を、神様が報いから漏らすはずはありません。
 私は恐らく原語にはそのようなニューアンスが読み取れるのではないかと思いますが、そうでなくてもイエス様がこのような厳しい言葉を残さなければならない事態は確かに何度もおとずれたのです。ですからイエス様の言葉をポジテイブに受け止めるか、ネガティブに受け止めるかでずいぶん違った信仰になります。
 しかし、イエス様は時には究極の選択を突きつけます。あの金持ちの若者には全財産を施して着いて来いと言われ、親の葬儀をしてからという人には「死人を葬るのは死人に任せておけ」と言われています。イエス様に従う道は二股かけることは出来ないのです。富にも親子の情にも寄りかかったままで、イエス様の道をたどることは出来ません。一度は捨てなければ得られません。一粒の麦は死ななければ多くの実を結ばないのです。死ねば多くの実を結びます。
 親でも富でも、結局は永遠に続くものではありません。しかし、一度、捨てれば永遠に続くものとなります。心の中ででも。そして本当に信頼できるのは、神を第一とする人々なのです。その人々は人の評判のためではなく、また相続財産目当てでもなく、ただ神に喜ばれたいがために真実であろうとするからです。だから、どんな人よりも真実です。もっと高い目標があるからです。
 芥川龍之介の周りにはそのようなクリスチャンが居なかったのでしょうか。残念!