ホームページ・メッセージ 050116 小 石 泉
生と死
最近のテレビで(テレビの話ばかりしているみたいで、いささか恥ずかしいのですが、何しろテレビから受け取る情報は大きいですからね)日本人の女性でチェンバロの世界的な奏者が、阪神大震災を通して、死について考えるために、“科学的に”死を学ぼうと演奏活動と大学での教授の仕事のほかに大学に入って勉強していると言う話がありました。真面目な人も居るもんだと感心しました。しかし、死は科学的に解明できるものでしょうか。
昔、ヨーロッパでは人間が死んで魂が抜ける時、どれぐらい体重が減るかと瀕死の病人を秤(それも天びん秤に載せた絵が残っている)に載せて計ったといいます。
さらに昔、エジプトの人々は死について本当に熱心に対面したようです。ピラミッドや王家の墓に残された遺物や絵画、文字から、彼らの真剣な思いが伝わってきます。死者の書なんていう文書も残されています。
死は人類にとって確かに最大の関心事だったのです。アレキサンダーもシーザーもチンギスハーンもルイ14世もナポレオンも皆、死にました。そして近頃何と人々が沢山死んでゆくことか。私は時々、人間の何パーセントぐらいが、老衰する途中で死ぬのかなと考えます。結構多いのではないでしょうか。また、億万長者だの、権力者だの、有名人だのと言っても死んだら何もないと同じなのに、それがいつまでも続くように考えているのはどうしてだろうかとも考えます。
死は人間にとって未解決の問題です。それでいて誰もそこから逃れられないのです。だからと言ってその問題だけに没頭すると、生がおろそかになり、それを全く考えなければ軽はずみで浅はかな人生になります。ある日突然、武士をやめ、家を捨て、妻を捨て、駆け寄ってくる幼子を蹴落として出家した西行。「幾山河越え去り行かば寂しさの果てなん国ぞ今日も旅行く」と漂浪の旅を続けた若山牧水。彼らもまた死に直面してその壁を乗り越えられなかった人々です。彼らは誠実に人生を見つめたのでしょうが、悲しいことに未解決のままで死を迎えました。
キリスト教とは死を解決した宗教です。今はこの世のご利益が優先されている感じですが、本当は人間の最大の敵、死に勝利した宗教なのです。しかし、なかなかそれを信じてはもらえないのです。
キリストはよみがえりました。それがキリスト教の最大の出来事です。確かに罪の贖いのためにキリストは十字架につかれました。しかし、それで最後だったら世のほかの宗教と変わりません。何を言おうと「ああ、立派な生涯だった」で終わりです。しかし、その後が重大です。キリストの復活がなければキリスト教は最も無駄で哀れな宗教だとあのパウロ先生も言っています。
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。Tコリント15:12〜19
キリスト教から復活を抜いたらクリスチャンは「すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」のです。それは最も哀れむべき、馬鹿々々しい騒動に過ぎません。キリスト教は単なる望みではなく、キリストによって永遠の命の保障を頂いているのです。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。15:20
本来、人間が創造されたとき、人間は死なない体だったのです。アダムとエバに対して神様は、エデンの園の中央にある「善悪を知る木の実」だけは食べてはいけないと命じられました。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。創世記2:16 〜17
それを食べると死ぬと言われたのは、食べなければ死なないということです。それまで人間は善である神の創造の中にありました。しかし、善に取り囲まれているとき、それを善と認識することは出来ません。だからこの木は悪を知る木だったわけです。悪を知ったとき初めて善が判ります。両刃の剣です。しかし、悪を知ったものは、善である神の世界の中には居ることが出来ません。こうして人は死ぬものとなりました。神にとって、人が悪を知って永遠に生きることは絶対に許せないことでした。
それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。Tコリント15:21〜26
キリストは人類の初穂としてよみがえりました。それは単なる「蘇生」ではなくアダムが持っていた永遠に生きる命を回復されたのです。そして間もなく、罪と悪の根源であるサタンとその手下の堕落天使を滅ぼされます。悪が滅びると死もなくなります。
しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
15:35〜44
パウロ先生は実に具体的に死人の復活を語っています。普通、人が「死人の復活」と言うとき、それはおどろおどろしいスリラーもどきの話になるのですが、キリスト教の復活は「朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえる」のです。なんと美しく、慕わしく、輝かしいものでしょうか。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。15:51〜58
この箇所が私は大変好きです。それはオリンピックで金メダルを取ることの何百倍も栄光に満ちたことです。「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」これほど驚くべき宣言は人類の歴史上一度もありません。ただその価値を知らない人には一文の価値もないのですが。
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」
あの死を「科学的に」調べたいと言う音楽家に教えてあげたいものです。しかし、聖書の言葉はよほどへりくだって聴かなければただの奇妙な雑音にしか聞こえないでしょうね。