ホームページメッセージ 2004・12・12 小
石 泉
主イエスのアイデンティテー
しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」ヨハネ6:36 〜40
ヨハネによる福音書の6章から8章にかけて、主イエスは非常に熱心に御自身が父なる神から遣わされ、神の御心を行っていると繰り返し語っています。それはまるで、あの「乞食と王子」の物語で、乞食になった王子が自分の素性を何とかして説明しようとしているかのようです。当時の人々は、この切迫した説明を理解できませんでした。そして、今でも果たしてどれだけの人が事の真実さと重大さを理解しているでしょうか。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。6:44〜47
私は神を見た、私だけが神を見たのだ。このような主張は神の選民をもって任ずるユダヤ人にとってひどく不愉快な言葉だったことでしょう。主イエスだけが神を見たのです。それは視覚的な問題ではなく、それ以上の、我々人間の知覚をはるかに越えた、神との一体感において認識されたものでした。それは自分を見たものは神を見たのと同じだと言う言葉にさえなっています。
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。ヨハネ14:9
そして、神と自分は一つであるという主張にさえなります。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。17:22
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」7:15〜18
この言葉を他の宗教の創始者の言葉と比べて見たいものです。私は釈迦やマホメットや孔子などがどう言ったかについては、あまり知りません。しかし、主イエスのように自分の全ての功績を否定して、全く自分が「他者」に依存している、「他者」のために存在していると言ったことは無いのではないでしょうか。主イエスは自分の存在理由、一切の栄誉栄光を否定しています。それら全てを父なる神に帰しているのです。これは世界の歴史の中でも極めてまれな主張だと思うのです。主イエスは常に第二の立場を取り、第一の立場を神に与えています。私はこの感覚をどう伝えてよいのか判りません。よく考えて見ていただきたいのです。これは非常に不思議な自己主張ではないでしょうか。一般に人は全てを自分の功績と主張したいものです。ローマのカイザルも、ヨーロッパ、エジプト、アジア、インドの全ての王たちも、人の功績さえ自分の功績に置き換えて見せることさえあったのです。
イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」7:28〜29
主イエスにとって神はあまりにも現実の存在であり、たった今まで一緒にいた方であり、常にそばに居られる方なのです。もっとも少々ホームシック気味にも思われるのですが。
「あなた方は知らないが私は知っている。」これはユダヤ教の指導者たちには許しがたい侮蔑と聞こえたでしょうが、主の幼子のような純粋な心では偽ることのできない真実だったのです。その故に祭司や指導者に憎まれ、十字架につけられたのです。
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」8:16〜19
これらの言葉をただそのまま読んでみてください。そして主イエスがどんな思いで語っているか、味わって見てください。
そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」8:25 〜26
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」8:28〜:29
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。8:41〜44
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。8:54〜59
この場面など、ほとんど狂気と思われたでしょう。本当に知っていることを語れば気が狂っているといわれ、真実を語れば偽りといわれ殺されようとする。そして事実殺されました。
わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。14:9
私たちはこのような言葉を真摯に受け止めなければなりません。それが主イエスと言う人なのです。それが主イエスのアイデンティテーなのです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。14:6
気をつけてください。イエスによらなければ父なる神の元には行けません。イエスを否定する者は神を知ることはありません。どんな歴史も学識も権力も主イエスを通さなければ父なる神には到達できません。ただイエスを主と信じる人々だけが神を知っているのです。この点を、決して誤解してはなりません。