メッセージ 2004・12・4          小 石  泉 

チャレンジ


最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。ピリピ3:1〜9

 パウロは若い時はユダヤ人の中でエリート階級にいました。割礼(宗教的な意味の包茎手術)を受けた生粋のユダヤ人。名門ベニヤミン族の出身。さらに日本で言うなら松下政経塾のような宗教的政治的指導者を育てていたガマリエル塾の出身でした。彼の熱心は、使徒に匹敵するステパノの死刑の責任者でした。しかし、さらにクリスチャン迫害の息をはずませておもむいたダマスコへの道の途中で幻の中でキリストに出会い、全く変えられました。
そして彼はこの世の立身出世の道、栄光への階段を外れたのです。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言う言葉にはこのような背景がありました。
 しかし、いつでも初めからこの世での成功、富、名誉を捨てなければならない訳ではありません。パウロはそう導かれたのであり、他の人は別の道を通るように導かれます。ただ、どんな成功や名誉や富の中でも、それらはキリストを知る知識に比べれば“ちりあくた”です。そのことを間違えてはいけません。むしろ、この世の成功や富や名誉をキリストの栄光のために、神の国の発展のために捧げるべきです。それは捨てることではありません。神様は人間から負債を負うことはお嫌いです。必ずもっと大きな応答があります。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。マルコ10:29〜30

 ただ、捧げると言うチャレンジが出来るかどうかです。私たちの、この世の価値観と神の世の価値観を神様は見ておられるのです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:11〜14

 パウロ先生はローマ書の中で人は信仰によって義と認められ、永遠の命を与えられ、神の子とされると繰り返し言っています。それなのにこれはどうしたことでしょうか。彼はここでは「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。」と言うのです。これは矛盾ではないでしょうか。
 これには日本人はとても良い実例を知っています。皇后美智子様や皇太子妃雅子様のことを考えて見ましょう。美智子様や雅子様がそれぞれ皇太子と結婚したときに、彼女たちは完全に皇族になりました。どこの外国に行っても日本の皇后、皇太子妃です。しかし、彼女たちが皇后、皇太子妃としての振る舞い、動作、さらに内面までなり切るのは並大抵のことではないと思います。それこそ血のにじむような苦しい体験があることでしょう。
 それと同じように、私たちが神の子とされ、義と認められた人になるのは決して簡単なことではありません。パウロ先生はこう言っています。
「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロ先生にしてこのような告白があるなら、私たちがさらに苦しい努力を必要とするとしても不思議ではありません。ひたむきに、一心に。

それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。3:16 ~21

 彼らの欲望は神、彼らの栄光は恥。彼らの思いは地上のことだけ。気をつけましょう。私たちも知らず知らずの内にこのような人々の仲間になってしまわないように。どうかあなたの国籍をいつも確認してください。あなたは日本の国籍とともに神の国の国籍も持っているのです。
 私たちが外国に行くと、税関ではその国の人々と違う列に並ばされます。その国に人々は帰国の日時を確認するぐらいですが、私たちはなかなか列が進みません。逆に成田の税関に帰って来たとき、私たちは日本人の列に並んでスムーズに通り抜けるのです。私たちは日本人ですからいわば「お帰りなさい」と迎えられるのですが、外国人は「いらっしゃいませ」と迎えられます。私たちには国籍があるからです。
 あなたが地上のいのちを終えて、天国に行ったとき、天国の門番の天使は、あなたを「お帰りなさい」と迎えてくれるでしょう。私たちはまだ見ていない自国に帰るのです。そこは見たことの無い場所ではありますが、故郷です。そこに行くと、そこの習慣、衣服、食事をとることになります。なんと体そのものまで変えられると言うのです。それもキリストと同じ姿に。その時まで、主の栄光に向かってチャレンジをし続けましょう。