ホームページメッセージ 2004・11・28     小 石 泉
 
収穫の時までに


イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」マタイ13:24〜30

 毎日、毎日、人の殺されない日はなく、次から次と凶暴で残虐な犯罪が日常茶飯事に起こっています。私は、これは世界的に見てもあまりない傾向ではないかと思います。これほど頻繁にこのような凶悪な犯罪が、それもごく普通の家庭に起こるというのは珍しいことではないかと思います。日本は戦後、社会の基盤を失いました。それまであった父親の権威、家庭の和、地域社会のつながりと言った良き伝統が根こそぎ失われたのに、それに代わるものが無かったのです。アメリカの場合、同じような凶悪な犯罪がありますが、多くは限られた階層だったり、悪魔主義者による計画的な犯罪だったりするのです。これについてはあまり知られていませんが、私はかなり知っています。
 そして、最後にはより頼むところがあります。人々は最後には「神よ!」Oh my God!と叫ぶ相手を知っています。
 神はいつまでこの世をなすがままにしておられるのでしょうか。もう間もなくです。間もなく収穫の時が来ます。その時、善と悪は区別され、正義と悪はそれぞれに報いを受けます。ここに書かれているように、途中で裁きを行ったら「良い麦も一緒に抜き取るかもしれない」のです。最悪の罪人でも、その子は善人であるかもしれません。
 人間の裁判には誤りがあります。正しいものが裁かれたり、罪あるものが裁きをまぬがれたり。それは完全ではなく、不条理です。「一人殺せば殺人だが百万人殺せば英雄だ」という言葉もあります。イラクで罪も無い女性や幼子を殺すように命じる大統領は偉大な指導者と呼ばれ、再選され、国民の3分の1を飢え死にさせる指導者はその国の太陽だとあがめられています。この世は不条理で不合理に満ちています。しかし、ある日、神のラッパが鳴り響くときが来ます。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:11〜15

 神の正しい裁きのときがやってくるのです。私はそのような結末、正しいことが正しいとされ、悪いことが悪いとされるときがくると判っていなかったら、到底、正常な神経を保っていることが出来ません。私は神を信じないで、神の正しい裁きを信じないで生きることは至難の業です。神の正しい裁きがあるから希望が持てるのです。あまりにも当然のことです。
 さて、ではお前はどうなんだ、お前は正しいのか。神の審判に前に出ることが出来るのかと聞かれるでしょう。その答えは決定的にNOです。私は罪人です。私は地獄にふさわしい者です。私には神の審判に耐えられる善も正義も全くゼロです。だから私はキリスト教を信じているのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:16〜18

 私はこの希望によって生きています。「御子を信じるものは救われる」とあるからです。「御子を信じるものは裁かれない」とあるからです。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。ローマ8:1

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。8:33〜39


神の御子は2000年前に私のためにゴルゴタの十字架の上に死なれて、私の罪の代価を払ってくださいました。ですから私は裁かれません。
 そういうと、それはずるいと言う人がいます。自分の罪を他人に押し付けるなんて卑怯だと。自分の罪は自分で償えと。なるほど、その通りです。償える程度のものなら何をしても償います。しかし、償えないほど大きな罪は許していただくしかありません。私はそのような重大な犯罪者です。私はそう認めています。

とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。詩篇49:8

 キリストは、あるたとえ話の中で私たちの罪がどれほどひどいものであるか、暗示しています。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」マタイ18:21〜35

これは自分の罪を棚に上げ、他人の罪をあげつらう人々に当てたものですが、その人の負債の額に驚きます。1万タラントというのは日本円すると数千億円に当たるほどのものです。それほど人の罪は神の前に大きいのです。あなたが人を殺すことは無いでしょう。しかし、どんな小さな罪でも神の完全な清さの前には恐るべき罪なのです。
 収穫のときは迫っています。今、神の前に悔い改めましょう。救いは約束されています。