メッセージ     2004・ 11・21        小 石  泉 

キリストの血と肉


イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネ6:32〜35

 この箇所は誤訳と言っていいでしょう。正しくは「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。」(口語訳)です。英語の場合もほとんどこのように訳しています。新改訳では何を言っているのか判りません。残念な訳ですね。
 さてイエス様はここでモーセに率いられてエジプトを出て、シナイの砂漠を旅したイスラエルに与えられた食物、マナのことを言っています。300万人もの人々が全く生産手段を持たないで砂漠に出て行ったのですから、これはとんでもない話です。エジプトの人々でなくてもイスラエルの行為は自殺行為と映ったでしょう。ああ、あの連中は1ヶ月と持たないで餓死するだろうよ。しかし、神様はマナを天から降らせイスラエルを養いました。
 イエス様は自分が本当のマナだと言われたのです。「いのちのパン」の「いのち」という言葉は原語ではゾエーです。英語の場合「生きているパン」と訳されています。いわゆる人生とか生命ではなく「活動や運動」を表す言葉です。生き生きと活動するためのエネルギーと言う意味でしょう。イエス様を食べれば、そうなると言うのです。もちろんイエス様が言われたのは霊的な意味、私たちの心の状態です。もし飽きるほど食料を食べていても、心が死んでいては生き生きと活動することは出来ません。
 しかし、ここで人々が「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」と言ったのは、その前に5つのパンと2匹の魚で満ち足りていたからです。彼らはそのパンを魔法のように受け止めていたのです。「あのパンがあれば、いつでも食べるには困らないぞ」。

しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。6:50〜52

 何という不思議で大胆な言葉でしょうか。当時の人々が全く理解できなくても無理はありません。今でもクリスチャンでなければ、いや、クリスチャンといわれている人々でも正確に理解しているでしょうか。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」イエス様は自分が本当のマナだと言われます。逆に言えばマナはわたしを表しているのだと言っておられるのです。砂漠で300万人を養った糧だと。「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」砂漠の40年どころか永遠に生きるのだ。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」この「肉」という言葉はギリシャ語でサルクス、イエス様の肉体を表す言葉です。イエス様は十字架の上で、あの5つのパンを割かれるように、ご自身の肉を割かれて人々に分け与えられました。ですから聖餐式では割かれたパンを食べるのです。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」6:53〜60

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。6:66

 この言葉に弟子たちの多くがつまづき去って行ったのには訳があります。旧約聖書にはこう書かれているのです。

ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。申命記12:23

 ユダヤ人は血に対して非常に敏感です。今でもステーキは完全に血を抜いたものを食べます。飛行機の機内食でもユダヤ人のためにだけ特別な調理法、ラビの祈りと監督で調理された肉を出します。相当、高いものにつくでしょうね。これらの特別な食物をコーシャと言います。
 そのユダヤ人に「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」と言ったのですから、彼らが憤慨したのも無理はありません。今だったら相当、無神経な説教者と非難されるでしょうね。
 イエス様がこのように言い表したこと、こういう風にしか表現できなかった真理、何とかして理解して欲しかったこと、それは非常に大切な教えです。それは、これ以上ないほど重要で、究極の表現、魂の奥底からほとばしり出る叫びです。イエス様御自身が私達、人間に必要不可欠なものだとおっしゃりたいのです。 あなたは、イエス様の肉を食べましたか? イエス様の血を飲みましたか? あなたはイエス様と一つになりましたか?
 さて、もしあなたがこのようにイエス様の血を飲み、肉を食べた人なら、あなたは神の子です。そして教会はこのような人々の集まるところです。クリスチャンはキリストの血による兄弟姉妹なのです。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
ヨハネ17:22〜26


 日本には「同じ釜の飯を食う」という表現があります。また茶道では一つの茶碗を皆が回して飲みます。実は聖餐式のぶどう酒も昔は一つのカップを回して飲んでいたのです。パンも正式には一つのかたまりを割いて食べました。全てはイエス様の肉体と血を表していたのです。日本の血縁と言う言葉でいうならば、クリスチャンの場合、キリストの血縁関係になります。「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」そういうわけで私たちがキリストの肉を食べ、血を飲んでいるなら、イエス様はいつも私たちの中にいるのです。