メッセージ 2004・11・14          小 石  泉 

災難と危機に勝つ道


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。−主の御告げ。−わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。−主の御告げ。−わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」エレミヤ29:11〜14(新改訳)

 この箇所を今までにも何度か引用して来ました。しかし、最近になって、私はこの御言葉の語られた時代的な背景を考えました。それはすばらしい偉大な励ましでした。
 24章でバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムを攻め取り、王やつかさや民の主だった人々をバビロンに連れて行きました。残った人々は別の王を立ててかろうじて国を保っていましたが、それはもはや哀れな弱小の群れに過ぎませんでした。
 エレミヤはバビロンに連れて行かれた王や祭司や長老などの人々に手紙を送ったのです。それは70年間我慢しなさい、その後で神はあなたがたを省みられるからというものでした。
 国家が無くなるという事態を想像できますか? 今、イラク(かつてのバビロン)が反対に、国が無くなろうとしています。それは究極の災難、絶望の時代と言えるでしょう。
 私たちは戦争や大災害をあまり経験していませんでした。戦後は遠くなり、記憶している人々も少なくなりました。台風や地震などの災害もなんとかしのいで、記憶も薄れていたときに、突然、襲った新潟地震。震源地では台風や洪水の災害は想定していたが、地震は全く想定していなかったということです。私たちにとっても他人事ではないのです。
 私がテレビや新聞で知るのは、災害地の人々が意気消沈し、失望し始めていることです。幸い、ボランテイアの人々や県や国の救助で少しずつ回復しているし、義援金は100億円を越えたといううれしいニュースもありますが、人々の疲労は溜まっています。まだ、一地域だから外部からの援助もできますが、これが国全体だったら、そして銃弾や爆弾の炸裂する戦争だったら、人々の絶望は深いでしょう。
 エレミヤの時代も同じように深い絶望が人々を捕らえていました。飛んでくる矢、石、きらめく刀、槍、恐ろしい外国の荒くれた兵士たち。血、炎、傷、死。破壊された街。しかも、その絶望は二重でした。一つは戦争による死や怪我、欠乏と言った実際的なものです。もう一つは神の選民という誇り、神の民は滅びないと言う信仰への絶望でした。
 あまりにもひどい不信仰、神への反逆、冒涜。先には北朝イスラエルが、そして今、南朝ユダが、神の裁きによって異邦人の国に滅ぼされたのです。これ以上の絶望はありません。 しかし、その時、神様はこの言葉をエレミヤに託されました。
「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。それまでのエレミヤは滅亡と破壊の預言者でした。そして、本当にそれが来たとき、エレミヤは平安と希望の預言者となりました。
 どんな危機の時にも、本当の神の民には平安と希望があります。

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。Tテサロニケ5:1〜9

 ここは「主の日」という特別な時の話です。世界的な大災厄の日です。しかし、そんなときでなくとも、小さくても個人個人にとっては致命的な災厄の日というのはあるのです。中越の人々にとっては、その日は牛にえさを与え、鯉を出荷する計画があったのです。しかし、突如として滅びが襲いかかりました。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。5:10〜18

 このような災厄に対して、どうすればいいのかが語られています。それは「慎み深くしていましょう」です。慎み深く。それが災厄の日、危機から逃れる方法です。神様が災厄や危機を人の世に許されるのは、人の高慢を打ち砕くためです。これは大変重大なことなのです。

いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。マタイ24:32〜39

イエスさまが来られるときが何時かはわかりませんが、災厄はもっと身近に起こります。私たちは世の人の様には恐れ惑うことはありません。
 今私たちに必要な信仰の姿勢は、あのカナン人の女の信仰です。

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。マタイ15:21〜28

 信仰とは神の前の謙虚さですよ。多くの人がこれをはきちがえています。そして、災厄のとき、危機の時に、人は自分の小ささ、むなしさに気づき謙虚になるのです。ですからはじめから謙虚を学んでおけば、どんな災厄にも危機にも平安と希望をもって過ごせるのです。