メッセージ   2004・10・17       小 石  泉 

理論的な乳


 私たちの教会で救われた関西地方のある姉妹は、時々、色々な教会のリバイバル集会に出席するそうです。そこでは人々が、倒れたり、笑ったり、叫んだり、踊ったりしています。それはいわゆる、トロント・ブレッシングとかペンサコーラ・ブレッシング、あるいはベニー・ヒン、フレーソン、ロドニー・ハワード・ブラウンと言った伝道者の影響が残っているのです。この流れが盛んだったころ、人々は“霊的に解放”され、何時間も大声で笑ったり、伝道者の一吹きで何百人も倒れたりする現象がありました。時には普段ごく真面目な牧師や宣教師が会堂で闘牛の真似をしたり、その集会の帰りの飛行機の通路をケンケンして歩いたりしました。これらは“霊の開放の結果”だと言われました。
 正直に言って、私はそれを聞いたとき「きつねつき」「たぬきに化かされる」という日本のことばを思い出しました。小判だと思ったら木の葉だった、いい湯加減だと入っていたら肥溜めだった。言い過ぎでしょうか、いいえ、事態は非常に深刻です。
 多くの場合、これらの現象は異教や道と呼ばれるところでも見られるものです。柔道では手足を伸ばすことによる体の矯正を教えます。これはハンター夫妻という伝道者がやりました。カイロプラクテック、集団催眠でも同じことが起こります。いわゆる「気」の世界では人を倒したり、転がしたりすることは簡単なことです。もちろんキリスト教にこれらの似たものがあっても良いかも知れませんが、果たしてそれは本当に聖霊によるものでしょうか。私はこれらの人々について少しだけ知っていますが、それは別にしておきます。
 実を言うと私は、これらのことについてあまり論争したくないのです。本当に憂鬱になる話題なのです。ネガティブな話ですから、どうしても悪役なのです。だから今までもなるべく避けてきました。しかし、言わないで死ぬわけにもいきません。このごろ一つ一つのメッセージを遺言と考えようと思っています。もっともなかなか天国に行けるほど清くなっていないので、ものすごく長生きするかもしれませんが。

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。Tペテロ2:1〜2

 私たちが神の国、聖霊の充満を求めて飢え乾くのは悪いことではありません。この御言葉のように熱心に求めることは良いことです。
 ところでこの御言葉の「みことばの乳」という言葉は、口語訳聖書では「霊の乳」となっていました。「みことばの乳」と「霊の乳」ではずいぶん印象が違います。私はなぜこんなに違うのだろうと思い調べて見ました。新共同訳は「霊の乳」、King James Versionは「Milk of Word」」みことばの乳、 Revised Standard Versionでは「Spiritual milk」霊の乳でした。どうしてこんなに違うのでしょうか。それで原語のギリシャ語を見て見ると「ロジコウ ハソロス ガーラ」とあって英語の logic と言う言葉が使われています。直訳すると「理論的な、まじりけのない乳」とあります。なるほど翻訳者の苦労がしのばれます。「理論的な乳」とは何のことでしょうか。「理にかなった」と言えば少し判るかもしれませんが、こういう場合、反対の言葉を当てはめて見ると判るのです。「理論的」の反対は「感情的」ではないでしょうか。
 多くの場合、これらの“ブレッシング”は人間の感情に訴えます。私は感情を表すことが悪いことだとは思いません。私は非常に感情的な人間です。しかし、神の国のこと、聖霊の祝福や賜物に関しては、聖書は「理論的でありなさい」と言っているのです。これは驚くべきことではないでしょうか。霊的な事柄は感情や、不純な霊に影響されやすいから、冷静で理論的な受け止め方が要求されているのです。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。Tヨハネ4:1〜3

 「霊だからといって、みな信じてはいけません。」とあります。ここで注意が必要です。「イエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」とあって、あの人々はイエスを告白しているから正しいと言います。しかし、本当に心からそう告白しているかどうか、試して見る必要があると私は思います。その人物に会って本当にイエスを主と信じているかどうか聞いて見ないと判りません。今は、悪霊は肉を切らして骨を切る、というような切羽詰った戦いを挑むのです。私はよく聖霊の働きを悪霊の働きと言うのは聖霊を冒涜することだと言われます。

しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。マルコ3:29

とあるからです。それはもう私は小学生のころから知っている御言葉です。しかし、逆に、悪霊の働きを聖霊の働きと言うことは聖霊を汚すことにはならないのでしょうか。私は自分の知っている知識によって(ここでは細かく語れませんが)これらの働きが悪霊によるものだと永遠の裁きを覚悟して断言します。

というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。Uコリント11:4(口語訳)

 ここでパウロ先生は、コリントの教会をほめているのではなく、皮肉を言っているのです。サタンや悪霊は、遠慮深かったり、思いやりがあるはずがありません。あつかましく、ずうずうしく、狡猾に私たちの持っている栄光の富を奪い、自分と同じ地獄の子としようとありとあらゆる手段と知恵を尽くして攻撃してくるのです。しかし、クリスチャンは寛大です。なるべく善意に受け取ろうとします。気をつけてください、私たちが無知の故に、あるいは不注意の故にサタンや悪霊のわなにはまったら、その責任は自分にあります。

 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。Tコリント12:10

 今、本当に必要なのは霊を見分ける力です。これは緊急に必要な最も重要な賜物であるのに、最もないがしろにされ、ほとんど持っている人がいないのが実情です。面白いことに、日本の神道にはこの霊を見分けると称する能力者がいてそれは“さにわ”と呼ばれています。それ自体大いに怪しいのですが、そのような制度そのものは良いものです。キリスト教にも“さにわ”が必要だと痛感します。これは聖霊の賜物の中に、ちゃんとあるのですから、それを認め、重要視しなければならないのです。このようなことを感じ、訴えるものがほとんどいなくて私だけであることに寂しさを感じます。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。エペソ1:17

 空中を飛んだり、水の上を歩いたり、あっという間に死人をよみがえらしたり、一息で数千人をなぎ倒すような超能力よりも、私たちは知恵と啓示の霊を求めましょう。もう一度読み返して見ましょう、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
「理論的な乳」を。