メッセージ 2004・10・10       小 石  泉 

光 と 闇


 先日「何で神様はサタンの存在を許しているのですか」という質問を受けました。これは今年1月18日にお話した、「人間の完成」−なぜ神は罪と悪の存在を許したか−とほぼ重複することですが、サタンそのものがなぜ生まれ、どうなるのかについてお話したいと思います。これについては機会あるごとに語ってきましたが、この際、もう一度はっきりと語っておこうと思います。私たちが同じ道を通らないために。

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。創世記1:1〜5

 神様は世界を創造されました。その時、「地は形がなく、何もなかった」とあるのに、次の節では「やみが大いなる水のうえにあり」とあります。私たちが考える意味で、何もなかったわけではなかったのです。全くの無ではなかったのです。「地は形がなく、何もなかった。」と言うことばは口語訳聖書では「地は形なく空しく」とあります。原語ではボーフー、トーフーということばが使われているそうです。これは無秩序で荒廃したという意味です。このことから、世界が創造されてから一度破壊され、再創造されたという人々がいます。しかし、私は聖書の創世記は創造の途中から書いているのではないかと思います。神様は全くの無から、有を創造することはもちろん出来ますが、創世記は地球の原型が出来た時から書いていると考えるとわかりやすいと思います。まだ、熱いどろどろのマグマが噴出しているような時代です。この時、神様は光を創造されました。その前に地球にはやみがありました。世界はやみから始まりました。言い換えれば地球に神の創造の業が始まる前はやみだったのです。そこに光が現われました。
 さて、ここに私たちが抱く疑問があります。では天使はいつ創造されたのか。奇妙なことに、聖書は天使の創造については全く沈黙しています。天使は世の始まる前からいたわけではないのです。彼らも被造物です。しかし、聖書にはその創造が書かれていません。そしてエデンの園に突然、サタンはへびとして現われます。どう考えても、私たちに知らされていない天使の創造の書かれた書物があっていいと思うのですが、それは私たちには知らされていません。
ただ一箇所だけサタンの生い立ちらしいことが表われている所があります。

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真中で、刺し殺される者の死を遂げる。それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ。』と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。――神である主の御告げ。――」次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」エゼキエル書28:1〜19

 ここはイスラエルの北方にあったツロ(英語ではタイラス)という町の人間の王のことが書かれているのですが、いつの間にか天上の話になるという不思議な箇所です。「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。」何と言う表現でしょうか!
ツロの王は明らかに神の創造の究極の被造物を指しています。全きものの典型、知恵に満ち、美の極み。「あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。」この宝石はモーセの幕屋で仕えた大祭司の胸にかけられたエプロン、エポデに縫いこまれていた12個の宝石から3個だけ少ないものです。大祭司は神の子イエス様を表していますから、この人物はそれよりわずかに宝石3個だけ下の存在でした。
 伝承ではこれは天使長ルシファーをあらわすと言います。このルシファーがサタンになりました。どうして栄光の天使長がサタンになったのか、聖書は簡潔に、それは“高慢”の故だと言っています。そう考えてみると高慢ほど恐ろしいものはありません。全ての罪の根源は高慢であるのですから。どうして神の創造された天使長が悪魔になったのか、それは高慢です。では、どうして神は高慢と言う罪が生まれてくるのを許したのか。
 私は、それは神様の御性質の故だと思います。神の御性質は“謙遜”です。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29(口語訳)

 完全に清い方は罪を心に描くことが出来ないように、完全に謙遜な方は、高慢と言うものを心に描くことは難しいのだと思います。完全に清い方には罪、穢れと言うものを、想像することすら難しかったでしょう。同様に完全に謙虚な方は、高慢と言うものを思い描くことさえ困難だったでしょう。すこしでも思い描けばそれは神の中に罪、穢れ、高慢が宿りますから。このように神様にも不可能なことがあるのです。

また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。エレミヤ7:31

 「思いつきもしなかった」。それが神様の御性質なのです。
 ですからサタンの邪悪、高慢、穢れが生まれるのを神様は驚き、あきれて見ておられたのでしょう。しかし、奇妙なことにそれはまた必要でもありました。
 闇に光が輝いた。闇だけだったら光の喜びはありませんが、光だけだったら光の喜びはわかりません。罪がない世界では正義は判らないし、穢れがなければ清さもわかりません。イノセント(無邪気)は美しいですが、虚弱な善です。
 ルシファーは自分の理由でサタンになったのです。高慢の故に。私たちが高慢ならサタンに似るものとなり、謙遜ならキリストに似るものとなります。このごろは自己啓発とか自己表現という分野だけが強調されて、謙虚とか謙遜という美徳はないがしろにされています。しかし、キリスト教の本当の目的は謙遜な者になることです。ただむやみに謙遜なだけではなく闇を知った光、高慢を知っている謙遜が求められています。

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。エペソ5:8

闇を知らない光の子ではなく知った上で光を選び取った光の子。これを知恵というのです。