ホームページ・メッセージ 2004・10・2 小 石 泉
神のためらい
神様に後悔やためらいがあるでしょうか。創世記には神様が後悔したと書かれています。
主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。創世記6:6〜7
しかし、これはあくまで擬人化した表現で、神のご計画には寸分の狂いもありません。要するに人間にわかるように書いているのです。では、ためらいはどうでしょうか。ヨナ書には神様のためらいが書かれています。少し長くなりますが聖書を引用します。
主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。ヨナ1:1〜3
ニネベは当時世界帝国だったアッシリアの首都で、イスラエルはその圧力におびえていました。そして実際にその後、北朝イスラエルはアッシリアに滅ぼされます。ヨナはニネベが滅びればいいと思っていました、アッシリアが悔い改めて継続することを望まなかったのです。彼はニネベと反対方向のタルシシ(現在のヨーロッパ)に逃げました。ここら辺がヨナの不思議なところで別にタルシシに逃げなくてもそこにいても神様の命令を聞かないことは出来たはずです。しかし、彼は少しでも遠くに逃げれば神様はあきらめると思ったのかもしれません。船賃を払いとわざわざ書いているのは相当高額だったのでしょう。
しかし、この後、有名な、魚に飲まれることになります。そして魚に吐き出されて一命を取り留めますが随分過酷な経験です。もっとも彼は船員に自分を海に放り出せば嵐は止むと言っていますから、死んでも行きたくなかったのです。しかし、魚の腹の中は死ぬよりつらかったのでしょう。実際、あまり行きたくないところです。魚に飲まれて生還した人の話は他にもいくつかあります。ある人は魚の胃液によって皮膚がやけどの様にただれていたそうです。ヨナさんもよく読むと死の淵にいたようです。
時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。 このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。3:1〜10
驚くべきことにニネベの王は神の怒りを信じました。そして国中に悔い改めのお触れを出しました。私は今のアメリカの大統領が同じ警告を受けたとき、同じようにそれを信じ悔い改めるとは到底思えません。ブッシュ大統領はボーンアゲイン・クリスチャンを自称し、ファンダメンタルな信仰を持っていると言っていますが、ではなぜスカル・アンド・ボーンズ(髑髏と骨、フリーメーソンの有力な結社)などという団体に所属しているのでしょうか。この団体は憎むべきサタン礼拝の儀式を行うのです。
ニネベの王の謙虚な姿勢を見られた神は下そうとしていた災厄を思い返され、ニネベは滅びなかったのです。これは実に興味深い記録です。歴史の教科書には無いでしょうが。神様は人間の態度いかんではご自身の計画をも変更されるのです。
ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。4:1〜11
ヨナは怒りました。死んだほうがましだ! 神はヨナに教えるために、つる草を生えさせ日陰を作ってやります。しかし、そのつる草が枯れたときヨナの怒りは倍増します。死んだほうがましです! 何とも愉快なやりとりですが、こんなに身近に神と接することのできたヨナはものすごい人だったのですね。神様と喧嘩するんですからね。神様はヨナを愛されたことでしょうね。そして静かに諭します、一夜で生え一夜で枯れたつる草を、お前は惜しむのか、では私が12万人もの子供がいるこのニネベの町を惜しまないでおられるだろうか。この物語には神のためらい、心をひるがえさせることが書かれています。神はあくまで愛の方ですから、人間をむやみやたらに殺すことはお好きではないのです。
それはアブラハムの時にも表れています。
時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。創世記18:17〜33
ここはソドムとゴモラが滅ぼされる直前の話です。神はソドムとゴモラを滅ぼすと決めておられました。しかし、その前にアブラハムにそのことを告げに行きました。「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」。これも驚くべき言葉です。神が自分の決定をあらかじめ人に知らせずにはおれないというのです。それほどアブラハムは信頼されていたのです。ヨナと言い、アブラハムと言い、モーセと言い神に近く歩んだ人々はこのような位置にあるのです。
ここには神のためらいはありませんが、アブラハムが50人、45人、40人、30人、20人、10人の正しい人がいたら滅ぼしますかと聞くのを丁寧に答えています。ついに一人も、強いて言えばアブラハムの故にロトとその家族だけしか許される人がいないことがアブラハムにはわかりました。
こうして極限までの忍耐、ためらい、後悔。神は人のようにご自身を表すことによって救いの機会を広げておられます。私は今も同じだと思います。人の罪は積み重なって、滅びの限界点にまで達しています。本当ならとっくに世界は滅びたでしょう。しかし「神は愛である」とあるように、愛ゆえの神のためらいがその時間を延長させているのです。
今、世界は恐るべき核戦争に突入するかもしれない瀬戸際にあります。もちろん神様が起こすわけではありませんが、神の許容の限界によって起こるかもしれません。そうなれば何千万人、何億人が死ぬでしょう。今、神様は語られているのではないでしょうか、
「ましてわたしは数億の、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町々を、惜しまないでいられようか」。
悔い改めなさい。これが最後のチャンスです。国家であれ、個人であれ、悔い改める者を神は滅ぼすことはしません。それは神の御性質に合いません。
悔い改めよ! 世界の人々よ。「人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。」