メッセージ 2004・9・26       小 石  泉 

人間らしい人


 先日、私たちの地区集会にこられた婦人がこんなことを言いました。「私の心の真ん中がぽっかりと空いているんです。私は誰にもそのことが言えなくて。言っても変に思われるだけです。」私たちはその言葉を聞いたとき、ああ、久しぶりに本当の人間に出会ったと思いました。それこそ人間が人間である証です。人間は魂の器なのです。その魂に神の愛が入っていないと、魂は空虚でたまらなくて叫ぶのです。私を満たしてください!
 それで人は物を買ったり、食べたり、遊んだり、旅行に行ったりします。しかし、そんなことでは魂は満たされません。それで宗教に入ります。ところが宗教というものは偽の神々ですからたいていひどい目にあって、それを見ているから、恐ろしくてうっかり入れないし・・・・。そんな状態で毎日を手探りで生きているのがほとんどの人です。そしていつの間にか魂の叫びを押し殺して、真実に触れることもなく、手近な快楽で満足するようになります。しかし、それは人間とは言えません。それでは動物と同じです。
 人は神に創られたのです。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。創世記2:7

 この「命の息」という言葉を私は長い間へブル語のルアハという言葉だと思っていましたが今回調べたところ、これはネシャマまたはニシュマという言葉でした。ルアハはそのまま霊を表しますが、ネシャマはただ息です。もっとも、次の御言葉の「いのちの息」はルアハなのでやはり同じ意味に受け取って良いと思います。

わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。6:17

 そして人は「生きた者」となったという言葉の「者」はネフェシュです。英語のKing James Versionはこの「者」をsoul 魂と呼んでいます。私がこんなにこの部分にこだわるのは、神の息とはなんだろうと思うからです。「神の言葉」は人となってキリスト・イエスとなりました。ではここで言う「神の息」は聖霊なのだろうかということです。
 旧約聖書の中で唯一、聖霊という言葉が使われている場所があります。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。詩篇51:11

 この聖霊はゴデシュ・ルアハですからやはり命の息と聖霊は無関係ではなさそうです。
神様は人間を土から創造して命の息を吹き込まれました。それで人は生きる者となりました。しかし、これは私の推測ですが、おそらくアダムとエバが罪を犯してエデンを追われた時、聖霊も取り去られたのです。そしてイエス様が地上にこられ、十字架にお掛かりになり人の罪を清められたとき、再び神の霊は人間に宿るようになりました。それがペンテコストの聖霊の注ぎだったのではないかと私は思っています。
 人は神の霊を失ったままで数千年間生きてきました。しかし、神の霊が抜けた跡に、神の霊の形が残ったのです。その形は人に神の霊を求めさせます。それを魂と呼びます・・・というと随分大胆な発想だと言われるかもしれませんが、そう思うと私は、なんだか全てがすっきりするのです。事実、神に会うまで人の魂は空虚な空間ではありませんか。

主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。エゼキエル37:1〜10

 これは預言者エゼキエルが見た幻ですがこれをイスラエル民族の回復だとする説が有力です、しかし、私は人間のすべてに当てはまることだと思います。人は生きているというのは名ばかりで実は死んでいるのです。干からびた骨のように。この「息」もルアハです。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。詩篇100:3

 これこそ人間の生まれてきた意味、生きる目的です。これが本当にわかれば人生の目的、生きがいのすべてが明らかになるのに・・・・。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(中略)結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。伝道の書12:1〜14

 若い日に神を知ることは本当に幸いなことです。不思議なことに人間は幼い時ほど神を身近に感じているのです。しかし、年をとるにつれてその感覚は失われて行きます。その結果、心は空しくなり、傷を負ったこころにはかさぶたが厚く覆って、神を知ることがますますできなくなるのです。冒頭の婦人は珍しくまだ幼い清い心を失わないでいたのでしょう。そう言わねばならないのは悲しいことです。

主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」詩篇90:1〜3

 人間は必ず神の前に帰るのです。どんなに不信仰な人でも。

ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。伝道の書12:7

 人間の命は長くても80年、その間になんと大胆に神にたてつくのでしょうか。
私たちは神に向かって叫びましょう。喜びの声をあげましょう。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。詩篇100:1〜5