ホームページ・メッセージ2004・9・19 小 石 泉
天地創造と古代文明
今日はちょっと聖書の古代ロマンを探って見ましょう。と言っても実は聖書に書かれた天地創造と古代文明の記録は非常に限られていて、むしろ隠されているとさえ思えるほど少ないのです。天地創造に関してはわずかに2章、古代文明に関しては10章しか書かれていません。それに反してモーセの幕屋と祭事に関しては40章以上が費やされています。
このことから聖書の目的は人間の好奇心を満足させるためではなく、人間を罪から救済することであることがわかります。それにしてもこの広大な宇宙の創造をたった2章で済ませるという神様の文章力もすごいと思いませんか。
最近、私は非常に興味深い本を読みました。それは「恐竜と共に滅亡した文明」(浅川嘉富著 徳間書店刊)と言う本です。私はあまり本を読まない不勉強者です。特に最近は読む気になれる本がないように思います。しかし、この本は息もつかずに一気に読んでしまいました。想像を絶する世界があるのです。
1960年代初めペルーのイカという町の近くから1万個を越える不思議な石が出てきました。そこには恐竜と戦ったり、飼いならしたりして共存する人間の姿が生き生きと描かれていたのです。その地域の住民たちは最近になるまで恐竜と言うものすら知らないはずなのです。そればかりではなく、心臓移植手術、脳外科手術、翼竜とおぼしき巨大な鳥?に乗って飛行し天体観測をしている姿、大きな彗星、世界地図などが克明に描かれています。そこに描かれた人間は3メートルを超える巨人です。その絵から著者は大洪水によって滅びた超古代文明を推測します。それは12000年前の地球のカタストロフィー(大崩壊)を何とかして伝えようとする懸命な努力に他ならないと著者は結論付けます。そしてクリスチャンでもないのに創造論に至るので、この本があまり評価されないのかもしれません。
しかし、現在の古代の年代の決定は実は非常にいい加減な数値なのです。それもこの本で判ります。私は聖書の年代も現在の数字を機械的にあてはめるべきではないと思います。900歳も生きたと言うことを信じるとすれば、一年が24時間×365日なのかどうか。また現在の身長と同じ身長だったのか。天地創造はどれほど昔かわからないと思いますが、人間の創造は15000〜12000年位が妥当な数字であると思います。
聖書は恐竜について何も書いていないのでしょうか。実は少しだけあるのです。
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
創世記1:21
この「海の大いなる獣」と言う言葉の「海の」とは後から付け加えた言葉だと聞いたことがあります。また、詩篇には次のような言葉あります。
かしこに大いなる広い海がある。その中に無数のもの、大小の生き物が満ちている。そこに舟が走り、あなたが造られたレビヤタンはその中に戯れる。詩篇104:25〜:26
このレビヤタン(英語ではリバイアサン)はワニと言われていますが、もっと大きな恐竜を意味したのではないかという人もいます。また、ヨブ記の最後に出てくる河馬はとても現在のそれとは同じではありません。
河馬を見よ、これはあなたと同様にわたしが造ったもので、牛のように草を食う。見よ、その力は腰にあり、その勢いは腹の筋にある。これはその尾を香柏のように動かし、そのももの筋は互にからみ合う。その骨は青銅の管のようで、その肋骨は鉄の棒のようだ。これは神のわざの第一のものであって、これを造った者がこれにつるぎを授けた。山もこれがために食物をいだし、もろもろの野の獣もそこに遊ぶ。これは酸棗の木の下に伏し、葦の茂み、または沼に隠れている。酸棗の木はその陰でこれをおおい、川の柳はこれをめぐり囲む。見よ、たとい川が荒れても、これは驚かない。ヨルダンがその口に注ぎかかっても、これはあわてない。だれが、かぎでこれを捕えることができるか。だれが、わなでその鼻を貫くことができるか。40:15〜:24
さらにワニに関しても異様な表現があり、これは現在のワニを表しているとしたらものすごくオーバーです。聖書は物事をこのように誇大に書くことはありませんから、本当にそういう動物だったと考えることも出来ます。このワニはレビヤタンでしょう。
あなたはつり針でわにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。あなたは葦のなわをその鼻に通すことができるか。つり針でそのあごを突き通すことができるか。これはしきりに、あなたに願い求めるであろうか。柔らかな言葉をあなたに語るであろうか。これはあなたと契約を結ぶであろうか。あなたはこれを取って、ながくあなたのしもべとすることができるであろうか。あなたは鳥と戯れるようにこれと戯れ、またあなたのおとめたちのために、これをつないでおくことができるであろうか。商人の仲間はこれを商品として、小売商人の間に分けるであろうか。あなたは、もりでその皮を満たし、やすでその頭を突き通すことができるか。あなたの手をこれの上に置け、あなたは戦いを思い出して、再びこれをしないであろう。見よ、その望みはむなしくなり、これを見てすら倒れる。あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか。だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。わたしはこれが全身と、その著しい力と、その美しい構造について黙っていることはできない。 だれがその上着をはぐことができるか。だれがその二重のよろいの間にはいることができるか。だれがその顔の戸を開くことができるか。そのまわりの歯は恐ろしい。その背は盾の列でできていて、その堅く閉じたさまは密封したように、相互に密接して、風もその間に、はいることができず、互に相連なり、固く着いて離すことができない。これが、くしゃみすれば光を発し、その目はあけぼののまぶたに似ている。その口からは、たいまつが燃えいで、火花をいだす。その鼻の穴からは煙が出てきて、さながら煮え立つなべの水煙のごとく、燃える葦の煙のようだ。その息は炭火をおこし、その口からは炎が出る。その首には力が宿っていて、恐ろしさが、その前に踊っている。 その肉片は密接に相連なり、固く身に着いて動かすことができない。その心臓は石のように堅く、うすの下石のように堅い。その身を起すときは勇士も恐れ、その衝撃によってあわて惑う。つるぎがこれを撃っても、きかない、やりも、矢も、もりも用をなさない。 これは鉄を見ること、わらのように、青銅を見ること朽ち木のようである。弓矢もこれを逃がすことができない。石投げの石もこれには、わらくずとなる。こん棒もわらくずのようにみなされ、投げやりの響きを、これはあざ笑う。 その下腹は鋭いかわらのかけらのようで、麦こき板のようにその身を泥の上に伸ばす。これは淵をかなえのように沸きかえらせ、海を香油のなべのようにする。これは自分のあとに光る道を残し、淵をしらがのように思わせる。 地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた。 これはすべての高き者をさげすみ、すべての誇り高ぶる者の王である」。41:1〜34
それでは心臓手術、脳外科手術、飛行、世界地図に関してはどうでしょうか。
聖書のアダムからノアまでの古代の父たちは非常に長命でした。ほとんどが900歳以上です。私はこれを文字通り信じます。もしかしたら今のように一日が24時間、一年が365日ではなかったかもしれませんが、それでもものすごい長寿だったことは確かでしょう。私たちの文明、空を飛び、地上を高速で走り、海に潜る文明はほんの200年足らずのうちに出来ました。もし、900歳も生きたら、私たちより知識と経験においてはるかに優れていたはずです。それなら私たちより優れた文明を持っていたと考えても不思議ではありません。実際、南米のインカの遺跡の石組みは今の技術では出来ません。ピラミッドは高度の数学と地球のサイズの知識を持っていたことを表しています。その他、沢山の高度な文明の残滓が至る所にあるのです。ボリビアの至る所に残された大小さまざまな無数の石のボールは全く真円で、現代の技術でも非常に難しいと言います。インドのアショカ王の碑にある鉄の柱はなぜか何千年も錆びません。その他にも私はかなりこの方面のことを知っています。
聖書は言っています。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。伝道の書1:9〜10
私たちの知らない文明、人間の歴史があったかもしれません。それはノアの洪水によって滅びたのではないかとこの本は言います。いつの日か神様の国に行ったとき、これらの歴史を見せていただけるだろうと、私は楽しみでしょうがありません。だから死ぬのが待ち遠しくて仕方がないのです。
私はこの本に関してこれ以上詳しいことは申しませんが、どうぞぜひ読んでみてください。秋の夜のひととき遠い昔のロマンに浸って見るのも一興です。