2004・9・4 礼拝メッセージ     小 石  泉

神 の 時


 神様は世界と三回大きな関わりを持ちます。一度目は天地の創造です。二度目は御子の来訪です。三度目は御子の再臨と最後の審判、新天新地です。

初めに、神が天と地を創造した。創世記1:1

 天地の創造というテーマは世界各地にあり、神話、伝説、彫刻、絵画など色々な形で残っています。ところが仏教だけは、そして特に日本の仏教は、この天地創造を認めません。日本の仏教では(他の国のことはわからないので)天地には始めもなく終わりもありません。天地は悠久の昔からそこにあり、未来永劫あり続けます。これは実は世界的に見ても非常に珍しい思想ではないかと思います。しかし、日本人は天地の創造も永遠性も両方とも受け入れているという奇妙な宗教性を持っています。仏教はキリスト教と最も対角線上にある宗教で、それを完成させた日本がキリスト教を受け入れないのも無理がないと私は思います。仏教は人間が造った宗教の最高傑作と言えるかもしれません。
 サタンは自分を神として拝ませることが最高の願いです。それは間もなくひと時だけ実現しますが、キリストにより一蹴されます。
 さて、始めがあれば終わりがあります。聖書の信仰、特にキリスト教では世界の終末という思想が重大なテーマです。ユダヤ教とイスラム教ではこの終末思想は私の知る限り明確ではありません。最後の審判、新天新地は新約聖書の黙示録だけがはっきりと語っていて、旧約聖書ではそれほどはっきりは現れません。

 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。黙示録20:11〜12

 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。21:1


 全てのものには始めがあり、終わりがあります。人間がその一番わかりやすい実例です。赤ちゃんとして生まれるまでは人間はありませんが、生まれて存在し、死んで終わります。しかし、人は新しい肉体を持って永遠に生きると言うのがキリスト教です。仏教はこの点でも、輪廻転生という恐るべき教理を打ち立てました。人は生まれる前には別の形や、姿で存在し、しばらくこの世にいて、死んでまた別の形になるのです。これは実に上手く命や霊魂を説明しますから、ある程度人々は納得します。そこには復活とか永遠の命に似た思想があるのです。私は日本にキリスト教が根付かないのは、似たものがあるからだと思います。和という言葉などキリスト教の愛とそっくりです。
 今日、欧米で非常に盛んになっているニューエイジ思想はこの仏教思想に立つものです。彼らはこれ以上の思想を見つけられなかったのです。ギリシャ哲学、アリストテレス、プラトンなどは少し似た思想を持っていたようです。
 もう一つの神の関わり、御子の来臨は実は天地創造に匹敵する重大事でした。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(中略)すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。ヨハネ1:1〜10(口語訳)

 神が人となってこの世に来られた。これはどんな偉大な人物よりも偉大な人の話です。偉大と言う言葉すら、あまりにも惨めな表現と言わなければなりません。イスラエルの大地のほこりの地面に神の御子が歩かれてその足跡を残されたのです。しかし、ほとんどの人はそのことに気がつきませんでした。仏教の場合、阿弥陀如来がこのキリストに当たるようです。何億年かの後に地上に来られると言います。しかし、それはあまりにも遠い話で人間とは空想の世界でしか関わりあえないのです。そう、仏教は結局、空想の世界です。
 さて、神様はこの世界を放って置かれたわけではありません。その間にも頻繁にこの世界と関わりを持たれました。大きい関わり合いも、小さい関わり合いも。私たちでさえ、多くの奇跡や癒しを通して神の実在を体験してきました。
 今から2600年前、神様は今のイラク、バビロンで、ある重大な関わりを世界と持ちました。それは現代社会にとっても決して無関係ではないと私は思います。

ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。 5:3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。ダニエル5:1〜5

 ベルシャツァルというのはバビロン帝国の創立者であったネブカドネザル王の孫に当たります。彼は父、ナボニドス王が他の町を建てていた10年間、バビロンで父の代理として王の地位にいました。彼は三代目の典型で、おごり高ぶり、偶像崇拝と享楽の限りを尽くしていたのです。彼が数ヶ月も続く宴会をしていた時、宴会場の壁に人の手の指が現れ文字を書いたと言うのです。それは『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』と言う言葉でした。ベルシャツァルは恐れおののき、賢者や占い師にその意味を聞きますが、誰も答えることが出来ません。そこに王の母が来て、へブル人のダニエルを教えます。実はダニエルは王の祖父ネブカドネザルの時代には多くの奇跡を行い、王の次の位にいた人でした。しかし、ベルシャツァルはダニエルを重んじていませんでした。
 ダニエルは次のように言いました。

 ベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。5:22〜31

 メネ、メネ、テケル、ウ・パルシンという言葉の説明は難しいのですが、ダニエルの解釈は「神は、あなたの王としての資格を量ったが、足りなかった、あなたの国は終わる」と言う意味だと教えます。その夜、メデア(後にペルシャと合併しメドペルシャとなる)の軍隊がバビロンを滅ぼします。バビロンはその城壁の上を二頭立ての戦車(チャリオット)が三台並んで走ることができたといわれているほど難攻不落を誇っていました。しかし、その町の中をユーフラテス川が流れていたのです。メデア軍はその上流に運河を作り、川の水を堰き止めてそちらに流したので、城壁の下に巨大な穴が開いて、そこから侵入したと言われています。
 私は今の世界がこの時とそっくりだと思います。豊かな国々では人々は食べあきるほど食べ、飲みすぎるほど飲み、肥満は病気とさえ言われています。おごり、高ぶり。偶像礼拝。サタン礼拝。そして意味も判らない、弱いものいじめとしか思えない戦争。
 神様は間もなく壁に字を書かれるでしょう。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』。
神様の時計は大きくて、その針は私たちの目にはひどく遅く見えますが、確実に時を刻んでいるのです。そして神様はこの世界を放りっぱなしにしておられるわけではなく、時が来れば正しい神の裁きが行われるのです。また、神様は私たちの小さな願いにも答えられます。私たちにはいつでもが神の時であるのです。