2004・8・22  礼拝メッセージ    小 石  泉

自分を愛するように


 夏の学生キャンプの時、一人の少女の証(キリスト教会で使う言葉で自分の体験談のこと)に非常に教えられました。彼女は悪びれることもなく「私は小学生の時から、学校には行っていません。でも不登校ではありません。自分の家で勉強しています。」と言い、あっけらかんと「私は自分が大好きです。」と言うのです。それは本当にいやみがなくて、誰でもこの子が好きになるだろうなと思いました。きらきらと輝いていて、魅力的でした。私はすっかり考え込んでしまいました。自分を愛することができるなんてうらやましいな。
 イエス様はこのように言っておられます。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(新改訳)『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(口語)マルコ12:31

 今まで、私はこの言葉をあまり深く考えないで受け入れていました。人間は自分を愛するものです。そのように他人を愛するのだろうと。ところが良く考えてみると、人間が自分を愛する場合それは多分に利己的なものです。自己中心、自己顕示欲、自己満足、ひどい場合は他人を殺してまで自分の欲望を達成しようとします、イエス様はこのような自己愛で他人を愛せよと言うのだろうか。なんとも不合理で納得がいきません。
 その内に、一体この愛と言う言葉はどういう言葉が使われているのだろうかと考えました。ギリシャ語には三種類の愛と言う言葉があると言います。男女の愛であるエロース、母性愛、友情、愛国心などを表すフィレオー、そして自分を十字架につけて罪びとを許す神の愛に使われる言葉はアガペーです。ヤングのコンコーダンス(聖書語句辞典)によれば、ここで使われている愛はギリシャ語のアガパオでした。(アガペーは名詞、アガパオは動詞)
 この愛という言葉の使用方法の良い実例があります。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。ヨハネ21:15〜17

 ここで著書のヨハネは非常に注意深く言葉を選んでいます。最初のイエス様の言葉「わたしを愛しますか」はアガパオです。しかしそれに対するペテロの答えはフィレオーです。二度目のイエス様の言葉もアガパオです。そしてペテロの答えはやはりフィレオーです。ところが三度目のイエス様の言葉はフィレオーなのです。ペテロの答えはフィレオーでした。当時、イエス様たちはへブル語と親戚関係にあるアラム語を使っていましたので、どのような使い分けをしたのか判りませんが、ヨハネは慎重に言葉を選んで書き残しているのです。イエス様のアガペーの愛の要求に対してペテロは二度も「私はそのような気高い愛であなたのお答えすることは出来ませんが、私の出来る最善の愛、フィレオーで愛します。」と答えています。これに対してイエス様は三度目には「ペテロ、それで良いよ。お前の愛を受け入れましょう。」とペテロの身の丈まで身をかがめてお答えになっています。 そうしてみると、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言う愛は、私たちが本能的に持つ自己愛とは全く違うことがわかります。
 さて、問題はこれからなのです。人間は本能的な自己愛を持っていながら、実は自分を愛せないで苦しんでいる場合が多いのです。大人になると、あの少女のように「私は自分が大好きです」と言うことが出来ないのです。私は長年の経験から、多くの方々の苦しみの原因が自分を受け入れることが出来ない心の葛藤から来ることが多いことに気づかされています。言い換えれば自分を愛せないのです。クリスチャンの場合「隣人を愛する」ことは出来ても、案外自分を愛することが出来ないということになります。これは間違いです。なぜなら「自分を愛するように隣人を愛せよ」というのですから、自分を愛することが出来なければ隣人を愛することは出来ないはずなのです。しかし、善良な人々は何とかして隣人は愛さなければならないと考えます。ある種の強迫観念でさえあります。自分を愛することが出来れば自然に隣人を愛することは出来るのです。
 では、どうしたら自分を愛することが出来るでしょうか。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ15:13(口語)

 隣人を愛する愛は、アガペーの愛です。それは人のために自分の命を捨てるイエス様の愛です。そのような愛で自分を愛することが出来ますか。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。ヨハネ15:9

 あなたは愛されています。そのことを信じていますか? それなら神が愛された自分を愛することが出来るでしょう。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

 恐らく、どんな人間の愛よりも深く、確実な愛で神様は私たちを愛してくださっておられます。もし、それが確信できたら、私たちは自分をもう少し愛することが出来るでしょう。そうすればもっと隣人を愛することが出来るでしょう。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。マタイ16:24

 奇妙に思えるかもしれませんが、自分を愛するとは自分に死ぬことです。肉なる自己愛、自己中心、自己顕示欲、自己満足に死ぬことです。そして神の下さるアガペーの愛で自分を再認識することです。そうすれば本当の愛がもてるでしょう。
 東京の港区に幾つかの同じ銅像があります。それは笹川良一という人が自分の母親をおぶって四国の金毘羅様の階段を登る姿を刻んだものです。彼は生存中に、その像を自分で作らせ、国中に飾りました。しかし、それを見る人は決して其の像に感動はしないでしょう。むしろ醜いと思うでしょう。これほど見事な自己顕示欲の現れた姿はないからです。 それと同じ事にならないように望みながら、一つのお証をしたいと思います。
 先日、入院したとき、私が病室に入ると、前の患者さんと親しくなりいろいろな話をしました。彼は学校の先生で快活な好青年でした。もう一つのベッドには咽喉がんで顔の三分の一を無くした老人が点滴を欠かさずにいました。その人がいないときに先生が私に言いました。「あの人は、夜中に独り言を言ったり、物音を立てるので、私たちは眠れないんですよ。小石さんの場所も実はあの人の音に耐えられなくなって、個室に移してもらった人がいたんですよ。さびしいのかな。」
 夜になると、案の定、その老人は音を立て始めたのです。私はその人のことを思いました。不安なのかなあ。恐ろしいのかなあ。私はなにげなくその人のベッドに近づいて行きました。「大丈夫ですか?」と言って手を取ると、彼はしっかりと私の手をつかみました。そして音声の失われた喉から何かを訴えるのです。やがて彼はメモ帳を取り出して色々なことを書き始めました。英語が達者で外国人のパイロットやスチュワーデスのアパートを経営していること、ちょっとしたきっかけで癌がわかり、切開手術を受けたこと。癌は恐ろしいと何度も何度も書きました。私はただ聞いているだけでした。とても癒しを祈ることは出来ませんでした。あきらかにもう時間の問題でした。やがて彼は安心したのか話をやめました。その夜、我々は静かな夜を過ごしました。老人は物音一つ立てずみんな熟睡することが出来たのです。
 あの少女のように、自分が大好きな人を人々は求めています。蛾が光に吸い寄せられるように、人々は光を持った人を待ち望んでいます。私もまだ自分を愛することは出来ませんが、主の愛しておられる自分を、主の愛で愛したいと願っています。
 主の愛で自分を愛してください。今日から、そうしようと決めてください。