ホームページ・メッセージ 2004・8・22      小 石  泉

High Calling & Basic Calling


(私の所属している団体では、毎年、春と夏に中学から大学生までが集まってキャンプをします。キャンプと言ってもテントを張るわけではなく、ロッジや民宿で三泊四日の、言わば合宿をするわけです。これは大変すばらしいもので、毎年、多くの少年少女が信仰の決心をしたり、神への献身を決意します。このキャンプの出身者は今でも沢山いて、それぞれの教会で重要な働きをしています。今年は尾瀬の麓の片品村のロッジで東京メトロチャーチの林幸司先生がすばらしい導きをされ、土曜日に帰られ、日曜日の午前中に私がメッセージを頼まれました。これは、その時のものです。)
 
 先ほど司会者が「この朝、小石先生から、さらに高い導きを期待しましょう。」と言いましたが。私はそういう話はしません。林先生は十分に皆さんを信仰の高い峰に登らせました。それはパーフェクトと言えるもので、私はそれに何も付け加える必要はありません。そうではなくその高い水準をどうしたら維持できるか、または落ちないかについてお話します。
 昨日の朝、私はこの上の尾瀬戸倉スキー場に登りました。出たところはスキー場の中腹でしたが、私はスキーが出来ないのでスキー場に行ったことがありません。それで、ずいぶん高いな、すごい斜面だなと思いました。そしてさらに上までリフトが伸びていました。あんな高い所から降りてくるのかとちょっとびっくりしました。
 皆さんもこのキャンプで最初の晩、そして第一聖会、第二聖会と林先生に導かれ、高い、高い霊の高嶺に登ってきたのです。ヨシュアによる神の呼びかけ「命と死、祝福と呪いを選びなさい。」また「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」「人に導かれる人ではなく、人を導く人になりなさい」と熱いチャレンジを受けたのです。どうぞ、その熱い神様への献身、愛を維持してください。このようなチャレンジをHigh Callingといいます。日本語では召命と言います。
 しかし、万が一、皆さんの中にこのような高い水準を維持できなくなって、山を下ってしまう人が居るかもしれません。ご両親がクリスチャンの家庭なら、今日の皆さんの状態をそのままお話しても「良かったね、すばらしいね。」と喜んでくれるでしょう。
 でも、もし、ご両親がクリスチャンでなくて、皆さんが家に帰り、この興奮と感激をそのまま話して「私は神様に献身しました。」と話したら、恐らくご両親はびっくりして、「とんでもない。もう教会なんて行ってはいけません。」と言うかもしれません。あるいは友達に話しても「なにそれ、ワカンナイ。それより渋谷に行こうよう。」と言われてがっかりするかもしれません。あるいは誘惑にあったり、失敗したりして落ち込むこともあるでしょう。「あの尾瀬の経験はなんだったのかなあ、もう一度、あのロッジに行ってみようかな。」と思って来てみても、もうこのすばらしいキャンプはないのです。
 山に登る途中で、私は沢山のたらの木を見つけました。しかし、どれも枯れていました。たらの木は春に芽を出しますが、それは大変おいしいので山菜をとる人たちの人気の的です。ただ、たらの木の芽を採るには二つの原則があります。一つは必ず手でもぎ採ること。もう一つは最後の一つは絶対に採ってはならないということです。全部採ってしまうと必ず枯れます。しかし、一つでも残しておくと、夏にはいっぱいの葉が茂って、来年また芽を出してくれるのです。ところが最近はそういうことを知らない人が多いのか芽を全部とってしまうので、みんな枯れてしまうのです。
 あなたも、もしいろいろな障害が起こって、信仰の芽が摘まれてしまうような場合でも、必ず一つは守り通してください。教会に来る、それさえ出来なくなるような事があっても、牧師先生や伝道師先生やクリスチャンの友達と連絡を取るようにしてください。芽の一つを死守してください。でも、もしそれさえ出来なくなってしまったら、もちろん私は最悪の場合を言っているのですが、それでも心配しないでください。あなたは決して失われることはありません。実はたらの木はたとえ枯れても、2、3年たつともう一度根から芽が出てくるのです。同じように、あなたにも信仰の根があるのです。それはHigh Callingに対してBasic Callingというものがあるからです。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16

 「あなた方が私を選んだのではない、私があなた方を選んだのです。」これは何という不思議な言葉でしょうか。元々、信仰は自分で神や宗教を選ぶと言う決断の行為です。ところがこの宗教に関する限り「信じる」と言う扉を開けて入ると、その扉の内側に「選ばれていた」と書かれているのです。もし、「信じる」と言う扉の内側に「信じた」と書かれていたら「信じません」あるいは「やめます」という決断も出来るでしょう。しかし、「選ばれていた」と書かれていたら、そういう決断は出来なくなります。この宗教には人間の決定権も最初は有効ですが、その後は神の側に決定権があるのです。おかしな話だと思いませんか。ですから、そんな馬鹿なことは信じられないと去っていくことも出来るでしょう。その人は選ばれていなかったのです。なんだかひどく騙されているような気がしますか。私たちの移り気な、頼りない信仰ではなくて、神様の側の圧倒的な哀れみと力で私たちの信仰が護られるなら、私はそれで良いと思います。これがBasic Callingです。あなたの信仰があのたらの木のように枯れても、神様の選びは根の様に枯れません。いつでも芽を吹くのです。
 では、私たちにどんな資格があって神の選びがあるのでしょうか。

またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 ルカ15:11〜:24

 この息子は「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」という決断をしました。「資格がない」という判断に「資格がある」のです。この息子はお父さんによれば「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」のですが、それはお父さんの家を出た後ではなくて、お父さんの家にいる時からそうだったのです。教会に帰ってくる、あるいは出席する、あるいはクリスチャンである資格は、自分にはそんな資格がないというところにあるのです。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マタイ9:13


 クリスチャンでない人にクリスチャンとはどんな人ですかと聞くとほとんど100%「正しく、清い人」と答えます。しかし、キリストは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われます。教会はあなたがどんな状態でも帰ってくる当然の場所 あなたがいつでも当然居て良い所なのです。
 何年か前、まだ私たちの教会が船橋にあったころ、会堂の隣に小さな私の事務所がありました。ある時、たまたま末の娘と私がそこにいて入り口のドアが開いていました。すると一匹の子猫が入ってきました。彼または彼女は何のためらいもなく入ってくると、ぴょんとソファーに飛び乗り、クーと寝てしまったのです。私と娘は思わず顔を見合わせて、「可愛い! 飼おう」と言い合いました。もし、その子猫があたりをうかがい警戒心いっぱいで入ってきたら、私たちはすぐに追い払っていたでしょう。しかし、あまりにも自分がここにいるのは当然のように入ってきて、寝た姿を見てそう決めたのです。
 その後、その子猫は、たまたま綱を離れていたうちの犬と遭遇してどこかへ行ってしまいました。私たちは必死で探しましたが見つかりませんでした。その後、娘が友達から子猫を預かったりしましたが、飼う気にはなれませんでした。あいつ! あの当然のような顔をして、何の警戒心もなく入ってきた、あいつでなければならないのです!
 神様も同じです。私たちは子猫のように、飼われる資格はないのです。しかし、神の慈愛と忍耐を知っていますから、あいつのように近づくべきなのです。もっと清く、正しくなってからなんて考えたら一生神様に帰ることは出来ません。
 あなたは選ばれました。あなたにはBasic Callingがあります。あなたはもう失われることはありません。そして「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」という御言葉のように、Basic CallingはすぐにHigh Callingにつながっているのです。だから安心して、燃えて輝いてください。

(High Callingは、普通はただCallingといいますが、特に強調する場合に使います。またBasic Callingという言葉はありません。私の造語です。)