2004・8・1 小 石 泉
あなたは、どこにいるのか
毎日、暗いニュースばかり聞きます。自殺者は年間34000人、一日平均95人が自ら命を絶っています。また、私も最近、新橋の駅に行くことが多いのですが、ホームレスの人々に出会います。中にはやせ細り、真っ黒で人間とも思えない人もいます。気の毒ですが、何もしてあげられない。たまにはお弁当でも買ってあげようかとも思いますが、やっていいことかどうか。彼らの人生ってなんだろうと思います。
そんな中で明るいニュースは新潟や福井の災害地にボランテアの人々が大挙して押し寄せることです。こういうことは今まで日本にはなかったことで、とてもすばらしいことだと思います。これは日本人が他人に無償の奉仕をすることが、自分の喜びであることに気が付いてきたからでしょう。人間は生きがいを求めていますが、それは人に何かを与えるとき最も与えられるということは信仰を超えた真実なのです。イエス様はそのことを2000年も前に端的に表しています。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。ルカ6:38
先日、東北地方の方からお電話がありました。その男性は40代でお母さんと二人暮しでしたが、最近、お母さんが倒れてもう長くはないだろうということです。彼は12歳の時に父親を亡くし、母親に極度に甘やかされて育ったと自分でも自覚していました。高校を出てからしばらく働いたが、あとは母親に養われて、今は母親の年金で生活しているということでした。お母さんが死んだら、もう生きることが出来ない、自殺しようと思うがそれも出来ない、不安で、不安でどうしようもなくてお電話しましたというのです。とにかく近くの教会に行って下さいと勧めましたが、体が弱くて歩くこともままならないと言います。私は思わず絶句してしまいました。どう答えたらいいのですか? どうアドバイズしたら、この人に生きる希望と力を与えることが出来るのですか?
とりあえず生活保護を受けることになってから、私は次のことを言いました。
1. 自分が弱く、何も出来ないものであることを認めなさい。
2. 何でもいいから、何か自分に出来ることを考えて始めなさい。
3. 自分は何かが出来る、と口に出して言いなさい。
まず、このような人でも、プライドというものがあります。むしろ弱く、何も出来ない人ほど自分の価値を何とかして見つけ出したいので、強烈な自己表現をしたがるものなのです。その典型は精神病院に行った時に経験しました。自分は天皇の落とし子である。自分はアメリカ大統領の遠戚に当たる!(どう見ても日本人でしたが)というような人々に何人も出会いました。それも真剣に真に迫って。時には非常な高慢を見ました。高慢は人を狂わせます。そうです高慢がルシファーをサタンにしたのです。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」創世記3:8〜9
「あなたは、どこにいるのか」罪を犯したアダムとエバに神様が聞いた最初の言葉がこれでした。神様には彼らがどこにいるのか判っていました。ですからこの言葉は人に自分が今どういう状態なのかを自覚させるための言葉なのです。私たちが悩んだり、苦しんだりすることの裏には、自分の今の状態を認識できない、あるいは認識したくないという意志がある場合があります。特に罪深い自分、惨めな自分、あわれな自分をそのまま認めることはプライドが許さないのです。アダムとエバは神様がやるなと言ったことをやってしまったと言う後悔、罪意識、敗北感をそのまま認めたくないという状態だったのでしょう。それで神様は、「あなたはどうしたのですか? 今の状態をしっかりと認識しなさい。」と言っておられるのです。これはエリヤがイゼベルの脅迫を恐れてホレブに逃げたときにも掛けられた言葉です。問題の解決には、まず、自分の今の状態を正確に認識すると言う作業が必要です。これは時には非常な苦痛が伴うのですが、やらなければ次のステップが踏み出せないのです。そこに要求されるのは謙遜です。謙遜に自分の今の状況を認める、そうすれば自分も歩き出せるし、他人もあなたを認めてくれるでしょう。謙遜な人を嫌う人はいません。むしろ信頼して近づいてくるでしょう。謙遜は苦境を脱するための絶対条件です。神様はそこからだけ、私たちを救い出すことが出来るのです。
次に、私はいつもフジ子・ヘミングさんのことを話します。69年間は鳴かず飛ばず。しかし、70歳で花開いた人生。その苦しみの人生から生まれた旋律が、人々を感動させるのです。そして人間にはいつでもチャンスがありますよと。
またジミー大西さんのことも話します。失礼ながらお笑い芸人としてはあまり期待できなかった彼が、突然、絵でブレークして、今や有名な画家です。人間には誰にでも何かの能力を神様は与えておられるのです。
次に、言葉には力があるということです。命があるとも言えるでしょう。「あなたは駄目な子ね」と母親が言い続ければ駄目な人間が出来ます。学校の先生に言われた一言で人生が狂ってしまったなんて話は山ほどあります。言葉はそれ自体が生きていて力なのです。だからどんなときにも自分に言い聞かせてください。「大丈夫、きっと上手くいくよ」「必ず出来るよ」と。そしてどんな状況でも言い続けてください。
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」マルコ9:23
「出来るなら、と言うのか」とイエス様は聞いています。一方次の場合では、
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。マタイ15:25〜28
イエス様は、そこまで言うのですかとこの女の信仰に答えています。確かに信じているから言葉になるのです。しかし、不思議なことに信じられなくても言葉にすれば信じられるようになるものです。
すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。マタイ9:20〜21
十二年間も病気だった婦人が、イエス様を知ったときに、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたとありますが、ここは原語では「言っていた」と言うのだそうです。彼女はそう口に出して言っていたのです。言葉はやがて、現実のものとなりました。言葉は物事を決定付ける設計図のようなものです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。ローマ10:10
心で信じるだけでは駄目です。口で告白しなければ。言葉が救うのです。ある人は過去の言葉を録音する研究をしているそうです。そうなれば恐ろしいですね。しかし、神様の元には私たちのすべての言葉が録音されています。信仰の言葉も、不信仰の言葉も。
癒やし系と言われた女優さんが「私は誰に癒されれば良いのですか?」と言っているのを聞いて思わず笑ってしまいました。だれでも癒されたいのです。温泉ブームやカラオケセラピーなどたくさんの癒やし系の方法が宣伝されているのを見ると、本当に多くの人が心と体の癒やしを求めているんだなあと思います。
イエス様は究極の癒やし主です。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11:28
世界の歴史上、こんな言葉を人類に投げかけた人物がほかに居るでしょうか。釈迦はこんな言葉を言ったでしょうか。世界を創造された神の一人子だけがこのような優しさにあふれ、確信に満ちた言葉を言うことが出来たのです。そしてその言葉に従ったものは本当に休みを得たのです。人は癒やされたいのです。休ませて欲しいのです。励ましが欲しいのです。それは御子の中にあります。人生の秘訣は神の子の言葉を信ずること。それを言葉に出すこと。そしてへりくだることです。