2004・7・25                       小 石  泉

ファイナルアンサー
―クリスチャンの苦悩について‐U―


 しばらく前、「ヤベツの祈り」という本がクリスチャンの間でベストセラーとなりました。ヤベツは旧約聖書の中で一回だけ出てくる、ほとんど無名の人です。(もう一人だけいる)

ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。T暦代史4:9〜10

 ヤベツとは「悲しみ」という意味で、どんな事情があるにせよ、ひどい名前をつけられたものです。しかし、ヤベツは積極的な考え方をする人でした。彼は何が何でも神様に良きことだけを求めたのです。そしてその祈りは聞き入れられたのでした。
 私たちは、初めから神様に「我に七難八苦を与えたまえ」などと祈る必要はありません。このヤベツのように「自分は弱いものです、しかし、祝福を求めます」と言うべきです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。エレミヤ29:11

 固く信じてください。このように、神様は私たちを取り扱おうとしておられます。
 しかし、神様の御心と、私たちの希望がいつも一致するわけではありません。この宗教には、まだ最後の解答が与えられていないのです。ファイナルアンサーは来ていません。多くの問題、疑問は未解決のままです。それどころかこの地上では解決は与えられていない場合の方が多いのです。例えば、神の正義は最終的には表されていません。この世界は不条理と悪の横行するままです。

 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。
 またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、−この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。−荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。ヘブル11:33〜40


 多くの場合、この箇所が歌われるとき、前半だけで後半は歌われません。だれもこのようなことを求める人はいないのです。しかし、それが歴史の現実でした。なぜでしょうか。イエス様は繰り返し、繰り返し、この世界は、現在は神の直接支配の下にはないことを言っておられます。

 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。ヨハネ15:19

 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。17:14

 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」18:36


 明らかに、イエス様は、今は、この世界が神のものではなく、自分に敵対するものであることとして語っておられます。どうしてでしょうか。神がこの世界を創造され、保っておられるのに、どうして御自分の権利を主張されないのでしょうか。

また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」ルカ4:5 〜7

 「それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」というのは嘘です。サタンは嘘をついているとき本当のことを言っているのだとイエス様も言われています。神様は天地を創造し、その全てを人間に託しました。「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従わせよ。」と言われました。しかし、その人間がサタンに誘惑されて、神に従わなくなったときに、サタンは人間からその主権を奪いました。それ以来、実質的にサタンはこの世の君、空中の主権者となりました。
 そこで、もし私たちがこの世で富と繁栄とを謳歌したいと思うなら、このサタンの言葉に従えばいいのです。「ひれ伏して私を拝むなら」一切の権力と栄光が与えられます。
 私は実際にそうして、驚くべき富と繁栄をもらった人々のことを知っています。彼らの富は計算できません。よく言う、世界の富豪は「計算できる」人々のことです。
 ここに信仰者のジレンマがあります。何よりも、この世の栄誉、栄華、富、繁栄を求めるなら、神に求めるよりサタンに求めるほうが手っ取り早いのです。神はこの世のことではなく、神に従う道、永遠のいのちの道を与えることを願っておられます。その大きな祝福のために全てを働かせて益としたまいますが、その過程で必要とあればこの世の繁栄も富みも与えられます。クリスチャンの信仰においては繁栄や富は目的ではなく、もっと高い目的のための手段であるときに与えられるのです。
 先ほどのへブル書の人々のことを考えて見ましょう。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。へブル11:13〜16

 彼らはこの世、地上を彼らの最後の地とは思っていませんでした。彼らはこの世でファイナルアンサーを求めませんでした。もっと良い故郷を求めていたからです。そしてこの世では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 ある宣教師が異国での長い苦しい宣教の働きの後で故国に帰りました。当時は船旅でしたが、その船には有名なハリウッドの俳優が乗っていました。やがてアメリカの港に着くと大勢のフアンや報道陣がその俳優を待っていました。しかし、その宣教師を待っていた人は一人もいませんでした。彼は思いました「あの俳優を、あんなにたくさんの人々が迎えに出ているのに、私を迎えてくれる人は一人もいないのか。」すると天から声がしました。「我が子よ、お前の故国はここではない。」宣教師は悟りました。そうです、いつの日か本当の故国に帰ったとき、主と天使と聖徒の大軍が彼を待ちうけていてくれることを。
 ヤベツの祈りをすることは結構ですが、この原則を忘れてはなりません。

イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。イザヤ45:15

 奇妙に聞こえるかもしれませんが、聖書の神様は“隠れた神”なのです。あからさまに御自身の権威、権勢、力を誇示されることは望まれません。神の御性質は、イエス様がそうだったように謙遜です。これが判らないと信仰の真髄は判りません。今のように、すぐ答えが欲しい、この世で、見ている前で、あざやかに。リバイバルを! こういうのをマイクロウエーブ・リバイバルと言います。電子レンジ・リバイバルです。
 しかし、間もなく、世界中のどんな不信仰、不注意な人でも否定できない形で神様は現れます。その時、全ては答えられます。ファイナルアンサーはすぐに来ます。