2004・7・18       小 石  泉

悩みの日にはわたしを呼べ     ―クリスチャンの苦悩について―


悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。詩篇50:15(口語訳)

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(新改訳)

わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。詩篇86:7


 クリスチャンに悩みがあるのでしょうか。最近、クリスチャンは繁栄と平安と癒しばかり求めているように思います。悩みや苦難はあってはならないもののようです。
 しかし、聖書は神を信じるものにも悩みの日があり、苦難のとげにさいなまれることがあると言っています。なぜでしょうか? 結論から言えば、人は繁栄や平安からは本当に神の求める人格は形成されず、悩みや苦難の中でこそ、神に似るものとなることが出来るからです。
 何度かお話した有名な話をもう一度しましょう。ある宣教師がタイに行ったときのことです。タイは銀細工の盛んなところです。宣教師はある銀細工の工房に行きました。一人の職人がるつぼの中に銀の原石を入れて、バーナーでるつぼを真っ赤に熱して銀を溶かしていました。やがて銀の液体の上に金かす(不純物)が浮かび上がってきました。彼はそれをすくい取っては捨てます。何度も何度もそうするので、宣教師は聞きました。「どれくらいになったら純粋な銀になったと言えるのですか?」職人は答えました。「この表面に私の顔が鮮明に映るまでです。」 その時、宣教師は偉大な真理を学んだのです。私たちの神も、御自分の御顔が私たちに鮮明に映るまで、私たちを鍛えるのだと。

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。イザヤ48:10

 私の書棚にどんなときにも決して手放さなかった一冊の本があります。それはカール・ヒルティの「眠られぬ夜のために」です。ヒルティはスイスの法学者で幸福論などの著書で有名ですが、熱心なクリスチャンでした。彼はこの書の中でクリスチャンに苦しみが必要なこと、苦しみを通してだけ人間は神の望まれる人格に成長することを深く語ります。
「苦難は人を強くする。歓楽は総じて弱くするのみ。無害な歓喜は、勇敢に耐え忍んだ苦難の合間のやすらいの地点である。しかも苦難はすべて、また必要なだけの歓喜をそれ自体の中に秘めている。もしあなたが、あなたを神に追いやる苦難を、あなたを神から遠ざける歓楽よりも愛するならば、そのときあなたは正しい道にある。
 わたしは、神の子で全く絶望のうちに死んだ実例を史上にただの一つも知らない。しかし、この絶望の誘惑はしばしば最善の人々にすら近づいてくる。みずから苦しみ悩まなかったひとびとを、どんな悩める者も信頼しない。」
       かたく信ぜよ、きみがため
       最善が定められてあることを。
       君が心さえ平穏であるなら
       どんな苦悩からも解き放たれる、
       時が来たら神の救助は
       力強くも突入し来る。
       君が悲嘆を恥じろう時が
       はからずも来るであろう。
「『正しいものには災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。』詩34:19これはすでに幾千年も前に語られた言葉であって、善良な人々がこの世で何を期待しなければならないかをきわめて簡潔に言っている。彼らは多くの苦難を受けねばならない。でなければ彼らは彼らが到達すべき真の善に達しない。」
「内的生活は、鉄を鍛える場合と酷似している。内的人間はたえず繰り返し、繰り返し、火に投ぜられ、そのつど強い急激な槌打ちで鍛えられねばならない。かくして彼はしだいに神の欲する形相をとり、神の目的に用いられうるものとなる。」
       高嶺を去りて、いとも深き谷底にゆけ。
       今ひとたびの下山をあえてせよ。
       さすらいのために汝が心根をまたも鍛えよ、
       やすらいの冠はいまだ汝がものならず。
       汝がみさおなお堅からず、知は聡からず。
       主は汝が鍛えを解くをえず。
       行いてとるをえざりし賜物を
       苦難に甘んじてこそとらえんとせよ。
       以上、白水社刊 小池辰雄訳「眠られぬ夜のために」より
 
 信仰の先達たちのことを考えて見ましょう。アブラハムは信仰の父といわれ、世界の三大宗教の祖と敬われていますが、99歳まで子供がいませんでした。その当時、子供がいないということは神に呪われた人と言われたのです。彼の苦悩はどれほどだったでしょうか。
 またヤコブはエジプトのパロに会ったとき、「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」創世記47:8〜9 と答えていますが、謙遜があるにしても大部分は真実だったのです。彼の生涯は決して平穏無事ではありませんでした。
 モーセも悩みの人でした。心ならずも文句ばかり言う250万人もの民族を連れて荒野をさまよう指導者となった彼の悩みと苦悩は計り知ることも出来ません。
 ダビデも苦悩の人でした。詩篇を読むとあまりにもダビデがあからさまに苦しみを書くので、あの偉大な王にしてどうしてこれほどの悩みがあったのだろうと驚きます。
 そして、私たちの主も苦しみの人でした。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53:2〜3

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。イザヤ53:11

 苦しみや悩みは無価値なものではなく、実は私たちが神の国にいたるための必要不可欠な行程なのです。そしてその苦しみの中から神に叫ぶとき、本当の神との出会いがあるのです。平安や繁栄からは軽薄で浅はかな人格しか形成されません。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。詩篇22:24

私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。25:17

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。31:7

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。119:71


 これなどもう何も言うことがないほど明確に苦しみの価値を教えてくれます。
 そして使徒パウロは言っています。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。ローマ8:18

 興味深いことに、このような個人的な問題は新約聖書よりむしろ旧約聖書のほうが念入りに書かれています。新約聖書は大きな主題、救いとか贖い、教会の目的と未来などについては明確ですが、個人の悩みや苦しみについては焦点を当てていません。それは恐らく、私たちが個人としてではなく、キリストの花嫁として整えられることを目的としているからでしょう。ですから旧約聖書において個人的な問題が解決され、新約聖書ではもっと遠大なキリストの目的のために、集団として生きる価値を語っているのでしょう。これは私にとっても新発見でした。
 悩みも苦しみもあなたにとって大いなる祝福なのです。クリスチャンの悩みには目的があり、価値があるのです。そして、神様は言われます。「悩みの日には私を呼べ」と。