メッセージ 2004・7・4 小 石 泉
救いとは何か
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16:31
クリスチャンは「私は救われました」とか「あなたは救われていますか」という言葉を当然のように口にします。しかし、この言葉は一般にはほとんど理解されていません。それどころかクリスチャンと自称している人でさえ本当に理解しているだろうかと思うことがあります。一体、キリスト教の救いとは何でしょうか。
一般的には「救われる」という言葉は、困難なこと、危険などから助けられることを言います。しかし、キリスト教での救いは違います。
1. 何から救われたのでしょうか。
罪と、死と、裁きから救われたのです。
2. その結果どうなったのでしょうか。
罪が許され、永遠の命を与えられ、神の子とされたのです。
私はユダヤ教徒やイスラム教徒に聞いてみたいと思います。「あなたは救われていますか?」。どんな答えが来るか非常に興味があります。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。4:12
気をつけてください。キリスト教の救いはキリスト以外からは決して与えられません。最近、ユダヤ教の優越性を主張するキリスト教の指導者が非常に増えています。実に奇妙なことです。少なくとも私たちが言う意味での「救い」はこの方、イエス・キリストによるしかないのです。これは最近までは自明のことでした。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:16〜18
クリスチャンの「救い」にとって非常に重要なことは「永遠のいのち」です。それは地上の癒しや繁栄や解放ではなく、永遠、すなわち神の国でのいのちなのです。そしてそれは長いいのちの事ではありません。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。ヨハネ17:3
「神とキリストを知ること」という、この「知る」という言葉は非常に親密な交わりを表します。言い換えれば、神とキリストを個人的に体験するという意味です。
私はクリスチャンホームに生まれました。幼いころから聖書を読み、日曜学校や礼拝に出席し、神につき、キリストにつき良く知っていました。しかし、高校を出て東京に来て、牧師である兄の教会に出席するころ、この「救い」が判らなくて非常に悩みました。理屈は判っているのですが自分の中に体験として無いのです。いろいろな伝道会や当時はやりのクルーセードに出席して、何度も決心しましたが心にうなずきが無いのです。
(ある時は、そのころ有名だったハロルド・ハーマンというハリウッドのディレクターが救われて大掛かりなクルーセードを杉並公会堂でやりましたが、そこでも決心したことを覚えています。)
ついに兄の教会を休んで、会社の寮の近くの教会に出席しました。そしてその教会の青年キャンプに出かけました。19歳の夏でした。ある夜、真鶴岬の突端の岩の上で「神様救ってください!」と叫んでいました。しかし、何の答えもありませんでした。失望して帰り、何気なく手にした本のページを繰っていたとき「イエス・キリストがやってしまった救い」という言葉に目が留まりました。「『やってしまった』だって? 何で過去完了形なんだ? 今、僕はこんなに悩んで求めているのに」。 しかし、はっと気づいたのです、「そうか! イエス様がやってしまったんだ。2000年前、あのゴルゴタの十字架の上で、僕のためにイエス様が血を流され、僕を救ってくださったんだ。」 涙があふれてきました。私は救われたのです。
たとえ何十年教会に出席していても、洗礼を受けても、救われていなければクリスチャンではありません。だから欧米のクリスチャンをそういう基準で数えなおしたらずいぶん違った結果が出るでしょう。では自分が救われているかどうかどうしたら判るでしょうか。それは、キリストの十字架の贖い、罪の許しが自分にとって必要不可欠だと信じているかどうかです。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあるようにイエス・キリストによる救いは、あなたを永遠のいのち、天国の民としての保障を与えます。そんな死後の世界に関心をもつなんておかしいという人もいます。それこそ変です。なぜなら目的地が判らないでどうして毎日の歩みが出来ますか? どこに行くかわからないで、当ても無くさまよう人生なんてまったく無意味ではありませんか? 救われていなければ今日のこの一分一秒さえ意味がありません。だから多くの人が何の意味も無く人生を歩み、終わっているのです。
救われてください。それが今日生きる意味を教えてくれますから。