メッセージ    2004・6・27      小 石  泉

神は生きている


 「神は生きている」という言い方は神様に対して随分失礼な言葉です。しかし、旧約聖書においては沢山出てくる言葉です。何か物事を確実なものと強調するときに使います。もっとも「神は生きておられる」と言うより「主は生きておられる」と言う方がはるかに多いのですが。
 さて、この頃の世の中を見ていると「神はいるのか?」という疑問がわいて来るでしょう。あまりにも理不尽、残虐、不法がはびこり、正義は遠く、毎日毎日殺人事件のない日はありません。安っぽいヒューマニズムや隣人愛などでは、もうどうしようもない時代です。確実に人間の罪の深さ、恐ろしさがあからさまに現れている時代です。
 かつてイスラエルにも神が忘れられた時代がありました。

 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」 T列王17:1

 エリヤという人がどういう地位にあったのかは定かではありません。しかし、王であるアハブに会うことができたと言うことからかなり高い身分の人で、神の預言者だったと思われます。そしてこの長い物語は、エリヤという名前に重大な意味があります。エリヤとは「主は神である」と言う意味で、主とは創造主である神ヤハウエのことです。
 当時イスラエル民族は南のユダと北のイスラエルに分裂していました。特にイスラエルは不信仰でエリヤの言葉によれば、

「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」19:10

 真の神に仕える預言者は皆殺され、エリヤ一人だけが残っていたと言うのです。これは驚くべきことですが、この信仰は前に申し上げたように生まれながらのもので自ら選んだものではないし、さらに今のように信者一人一人が聖霊を宿していなかったのですから、仕方がないことだったのかもしれません。それにしてもアハブは妻としたシドンの王の娘イゼベルが持ってきたバール神に仕えていました。バール神は古今東西最大の偶像で、日本の大日如来(大仏)もバールだということです。そして昔から偶像礼拝には人身御供、子供を殺して捧げる儀式が伴いました。(日本だけは不思議にそういういう習慣はなかったようです。)
 さて、この後、3年間の旱魃が起こりイスラエルは苦しみます。その間、エリヤはケリテ川でカラスに養われ(私はこのケリテ川を見てきました。険しい断崖絶壁の下にあります。)異邦人の町ツアレファテでやもめに養われます。そしてついに神はエリヤにアハブに会いに行くようにエリヤに命じます。

 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。18:1〜2

アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。18:17 〜19

 ここで面白いのは、アハブはこの旱魃の原因がエリヤだと信じていることです。それにもかかわらず神への信仰は持たないのです。バールは豊穣の神でしたから旱魃はバールへの挑戦、攻撃でした。エリヤはさらに過激な挑戦をします。

エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤは皆の前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」18:18〜25

 不謹慎な言い方ですが、エリヤはかっこいいですね。これほどあからさまに偶像、異宗教と対決できたらどんなにすばらしいでしょうか。驚くのはバールの預言者たちが、エリヤの挑戦を受けて立ったことです。彼らはバールが答えると信じていたのです。彼らも、すごい信仰です。

そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。18:26〜:39


 バールの預言者の中には当然イゼベルの故郷シドンの人間も居たでしょうが、イスラエル人も居たはずです。彼らは哀れにも見ることも聞くことも話すことも出来ない偶像に必死で願いましたが駄目でした。エリヤは言いたい放題、450人のバールの預言者をからかっています。胸がすく場面です。そしてエリヤの祈りに神は瞬時に答え、牛だけではなく石の祭壇さえ焼き尽くしました。石が焼けるのは数千度の高温のはずです。
 この情景を見て、イスラエルの民は皆、「主こそ神です。主こそ神です。」と言ったと書かれていますが、原語では「エリヤ、エリヤ」と言ったのでしょう。
 この大勝利の後で、エリヤは王女イゼベルの怒りと脅迫を恐れて逃げ出すと言う、何とも人間的な一面を見せます。彼は泣きながらシナイ山(ホレブ)へ逃げて行きます。

彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」19:9〜10

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」何をしているのか。神様の問いかけにエリヤは情けない答えしか出来ませんでした。しかし、それで良いのです。全ては神の栄光に帰するのです。人は讃えられてはいけません。私たちが大いなる業をしたとき、神様は私たちがはかない葦の一茎に過ぎないことを示されるのです。そして神は言われます。

しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。19:18

 エリヤよ、お前は自分一人だけだと思っているが、私は私に忠実な僕を7000人も確保しているのだよ。
 さて、今の時代もエリヤの時のように偶像や異宗教が満ち、人々は真の神への信仰を拒絶します。世界は混乱と暴虐に満ちて、不安定に揺れ動いています。
 しかし、どんな時でも「主は生きておられます」神は今、生きておられるのです。神は決して死なず、今も着実にご自身のご計画を実現しようと働いておられます。サタンがどんなに激しく活動しても、神は全てを掌握しています。
 エリヤにしてもアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなどの信仰の勇者たちは必ず、神を、生きてすぐそこに居られると信じていました。まるで親しい友人のように、強い父のように、信じていました。信じるというよりむしろ当然のこととしていました。私は今クリスチャンたちがどの位、神が生きていて、すぐそこに居られる方と信じているだろうかと思います。
 毎日々々、悲しい、恐ろしい事件が起こり世界がますます暗黒に閉ざされようとしている時、もう一度私たちは「私の仕える神は、今、生きておられます」と言い、そして神は必ず答えてくださると確信して行動したいものです。