ホームページ・メッセージ 2004・6・13     小 石 泉

ユダヤ教、イスラム教、キリスト教


 この三つの宗教は兄弟のように扱われます。確かに聖書の神を通してつながっていますから、そう思うのも無理ありません。(イスラム教はかなり聖書とは違う教えですが)
 しかし、前の二つの宗教とキリスト教とは根本的に違います。それは二つが生まれながらにその宗教に入らされるのに比べて、キリスト教は自発的に入るものだからです。もちろんキリスト教にも幼児洗礼というのがあって、本人の同意なしで洗礼を受けキリスト教徒とみなされるというシステムはあります。しかし、逆に言えばユダヤ教イスラム教はそんな儀式を行わなくても、生まれた時点ですでにその宗教に入っているのです。何の意思表示も、決断も許されません。
 この違いは私たち日本人には理解できないほど重大な違いです。日本人も生まれながらに仏教徒という場合が多く、また神道は全ての日本国民はイコール神道信者だという前提に立っているかもしれませんが、共にそれほど強い束縛はありません。しかし、ユダヤ人は、「おぎゃー」と生まれたら(母親がユダヤ人の場合)そのままユダヤ教徒です。イスラム教もイスラム教徒の家に生まれたらいやおう無くイスラム教徒です。そして共にその宗教から離脱しようとしたら大変な目に会います。家族からは捨てられ、場合によっては殺されることもあると聞きました。もっともキリスト教もヨーロッパアメリカでは生まれながらにクリスチャンだと思っている人々がいるように思います。
 本来、キリスト教は入るのも出るのも自由です。それは教会も同じで、気に入らなければ出て行けば良いのです。ところがたまに強制、脅かしなどで離脱を妨げたり、強烈な指導でマインドコントロールじみた束縛を与えることがあります。最近、いわゆる教会のカルト化ということがしきりに言われるようになりましたが、これなどは未熟でキリストの教えを全く履き違えた教会と言わねばなりません。私は昔からこの点はとても注意してきました。

エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。雅歌3:5

 これがキリスト教の原則だと私は信じています。キリスト教の基本は愛です。そして愛というものは決して強制されては生まれてこないのです。神は人にご自分を信じることを強要しませんでした。むしろ愛によって人々を受け入れました。人が罪にまみれていたので、ご自分のひとり子を十字架につけて罪を清め、人間を抱きしめられたのです。
 しかし、自発的に選んだはずのこの宗教は非常に奇妙な言葉によって意外な展開を見せます。キリストはこう言っています。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。ヨハネ15:16

 また使徒パウロはこうも言っています。

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。エペソ1:3〜5

 クリスチャンは自分で選んだつもりなのに、実は神とキリストに選ばれていたというのです。この言葉は一般の人には難解で、中野好夫?という人はこれにつまずきクリスチャンをやめて共産党員になったといいます。
 しかし、この言葉は励ましの言葉なのです。「選んだ」という扉を開けて入って後ろを見たら、「選ばれていた」と書かれていたのです。私たちの移ろいやすく弱々しい信仰ではなく、神に選ばれていたというのは何と心強いことでしょうか。もう、迷い出すことはありません。
 私たちは生まれたときにクリスチャンになったわけではないのですが、天地の創られる前から選ばれていたのです! これは実に説明の難しいことです。しかし、何と言う安心、何と言う確実さ。
 世界の富をほとんど握っているというユダヤ人。世界の石油を押さえているイスラム教徒。しかし、キリスト教徒は永遠の命を持っています。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 永遠の命という何だか遠い、意味の無い言葉に聞こえるかもしれません。しかし、はるか昔から人間は永遠の命を求め続けて来たのです。ピラミッドを初めとして、常に永遠の命を求めることは人間の熱心な願いでした。この世だけの快楽、富、名誉が最大の価値を持ったのはごく最近のことではないでしょうか。
 改めて、宗教といっても、何の葛藤も、選択も、追及も、ためらいも、疑いもなく生まれつき決まっているという宗教と、その全てを通過して、選ぶ、選ばれるという不思議な過程を通る宗教では、同じ土俵で論じることは出来ないと思うこの頃です。