メッセージ 2004・ 5・23 小 石 泉
天国銀行の口座をお持ちですか
毎年この時期になると高額納税者が発表されます。何十億円、何億円という納税額はその何倍かの収入を示しているわけです。またこの時期には教会会計の報告を文部科学省にしなければなりません。そこには教会財産の項目があって、定期預金、株券などの資産の報告が義務づけられています。毎年、私はそこに何も書き込むことが出来ません。普通預金でさえいつも「どうも一桁違うなあ」という思いで銀行に行きます。ちょっとばかり気恥ずかしい思いもします。しかし、負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、私たちには高額納税者のほとんどが持っていない資産があります。それは天国銀行の口座です。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。マタイ6:19〜20(口語訳)
この世の富と、天国の富。それはかけ離れたものに見えるかもしれませんが、本当は極めて身近な現実です。この世の富は失われやすいのです。日本がバブルに浮かれたのはほんの20年ほど前です。土地や株が高騰し、人々はそれが永遠に続くかのように追い求めました。今になって、大きな銀行までがそのつけを払わされています。不良債権という名の欲望の代償。それは長い間の信用も努力も全てを帳消しにしてしまいます。四国のある銀行の頭取はこのバブルはおかしいと言って、決して土地や株に手を出さなかったそうです。そのために今でも非常に安定していて、職員も良い給料をもらっているそうです。年金の無駄遣いのニュースには本当に腹が立ちますが結局、この世の富は「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような」ものでしょう。
天国の貯金は必要に応じてこの世でも使えるものです。インドの聖者といわれたサンダー・シングは世界中のどこに旅行するにも一銭も持たずに行ったといいます。必要は常に満たされたのです。またマザー・テレサのことを考えてみてください。彼女は洗い代わりの木綿のサリー以外は何も持たなかったといいます。それでも世界中から多くのものが送られて、貧しい人々に分け与えられました。いつも無一物でも必要は天から満たされるのです。私も何度か奇跡によって必要を満たされて今まで来ました。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」マタイ6:38
これが本当の富でしょう。たとえ10円でも人に与えたものだけが永遠に残るのです。あるやくざが放蕩三昧、金を貯めることだけを生きがいとしてきましたが、いつも心に空しい思いがあったといいます。しかし、自分に白血病が発見されたとき彼は全てを捨てて人のために生きるものとなりました。その結果、彼は本当の喜び、本当の富を見出したのです。「幸福とは人に与えることだよ」と彼は言います。
ある人が幻の中で天国に行った話をご存知でしょう。彼は天使に案内されて天国の道を歩いていると、両側に美しい立派な家が並んでいました。「これは誰々の家です、これはあの人の家です」と案内されていると自分の僕の家もありました。実に立派な家でした。ああ、これなら私の家はもっと立派に違いないと彼は思いました。ところが天使に案内されてたどり着いた彼の家はみすぼらしい、まだ建てかけの家でした。彼は天使に聞きました、「どうして私の家はこんなにみすぼらしく、建てかけなのですか?」天使は答えました、「材料が上ってこないのです」。
また、聖書はもう一つの蓄え方を教えています。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。−万軍の主は仰せられる。−わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。マラキ3:10
収入の十分の一を捧げるというのは大変なことです。ある人々は十分の一献金といっただけで教会を去って行きました。しかし、これは律法ではなく、天地創造以来の神様の供えられた献金の方法です。アブラハムはメルキゼデクに戦利品の十分の一を捧げました。これは喜んで出来ないならすべきではありません。出来るように祈らなければなりません。それは大きな喜びであり、大きな祝福です。天国銀行の定期預金であり、その利息は「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福」です。どうぞこの献金を負担に思わないで下さい。出来るように祈るべきですが、出来るようになったら感謝して捧げてください。献金だけではなく愛と奉仕も同じように尊い捧げものなのです。
またいつも言うように、子供の学費のためとか、家を建てるためとか、病気のためとか、葬式のためとかに備えて貯えることは地上に宝を貯えることには当たらないと思います。それは必要経費です。宝とは使い道のない金を言うのです。
しかし、時には次のような捧げものもあります。
それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」マタイ12:41〜44
これは何と美しい話でしょうか。その日の生活費全てを捧げたやもめ。それを知っているイエス様。レプタ2つは約156円だということです。わずかな献金。しかしそれはパーセンテージから言ったら莫大な献金です。もっともこういう献金は毎日するわけにはいきません。そんなことをしたら、餓死してしまいます。しかし、時には神様に全てを捧げる姿勢も美しいものです。
神の僕には特別なファイナンシャルシステムがあります。
預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」 U列王4:1〜7
昔から預言者(神の働き人)は貧乏だったようです。今のアメリカのテレビ伝道者が盛んに繁栄と金銭的な祝福を強調するのとはちょっと違いますね。しかし、いざとなればこのように神の助けはやってきます。私はこのような体験を数多く持っています。
さらに、
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。使徒3:〜9
昔、カトリックの教皇がトマス・アクイナスという人に、この箇所に関してこう言ったそうです。「トマスよ、使徒たちは、金銀は私にはない、と言ったが、今の私たちには金銀は有り余るほどあるなあ。」トマスはこう答えたと伝えられています。「はい、教皇様仰せのとおりでございます、しかし、その後のキリストの名はございません。」
金銀は私にはない。それが使徒たちの言葉であったことを覚えましょう。金銭的な繁栄、祝福だけを宣べ伝える最近の傾向を懸念します。私たちはキリストの御名によって生きます。そして天に宝を貯えます。