メッセージ 2004・5・23 小 石 泉
いつも喜ぶことの祝福
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
Tテサロニケ5:16 〜18
この御言葉は、何度も何度も取り上げるのですが、何度読んでも、これはまあ、何と言う無理な言葉でしょうか。これでは、事実上私たちは落ち込むとか、苦しむとか、悩むとかすることは許されていないのです。喜ぶことは「いつも」であり、感謝することは「すべての事」です。人から心無い仕打ちを受けても、財布を盗まれても、失敗しても、事故にあっても、迫害されても、鞭打たれても、殺されても・・・・喜びなさい、感謝しなさい、なのです! イエス様が「栄光を受けるときが来た」と言われたのは、十字架に掛かることだったことを思い出します。そんな馬鹿な。あまりにも理不尽です。しかし、悲しいとき、落ち込むとき、心が痛み苦しむとき、この御言葉を思い出し、見上げると、心はオブラートに包まれたように和らいでくることを経験します。
私は高山姉妹にこの御言葉を書いてもらって額に入れて自分の部屋に飾ってあります。とても喜んで、感謝している字なのです。心が痛みふさぐときこの文字を見ると、静かに心が癒されて行くのを感じます。
人生には悲しみが無いわけではないのです。苦しみに会わないわけではないのです。失敗しないわけではないのです。嘆きが襲わないわけではないのです。心の傷から血が滴り落ちることもあるのです。でも、この御言葉に触れると、変えられてゆくのです。
「全てわたしが知っているよ。あなたのことはわたしに任せなさい。あなたが苦しまなくてもいい、わたしが解決します。」主はそう言っておられるのです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28
アメリカに留学しているある姉妹の話を聞きましたか? 私も詳しいことは知らないのですが、大要はこういうことです。彼女はスーパーで財布を盗まれカードで40万円も使われてしまいました。すごいショック。誰でも落ち込み、悩みますよ。幸いなことにそのお金は銀行の保険で取り戻されたそうです。そして、その手続きで学校に行ったとき、事務の人がとんでもないことに気がつきました。「あなたは二ヶ月前に、しておかなければならない手続きがあったのです。そうでないと卒業できませんよ。」
それは最終期限の二日前でした! それから、事務の方の愛の努力でかろうじて彼女は今年卒業できることになりました。でも、もしカードが盗まれなかったら・・・卒業できなかったことは確かです! 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のは本当ですね。だから「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」なのです。
私たちはいつも主をほめたたたえることの模範的な実例を次の詩篇に見ます。
わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。34:1〜3
この詩篇はダビデが歌ったものですが、その背景は次のようなものです。
ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。
私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」Tサムエル21:10〜15
ダビデはサウロ王のねたみによって、命をねらわれ、逃れる場所を求めてかつての敵ガテの王アキシュのところに行きました。もしかしたら彼は自分をかくまってくれるかもしれないと思ったからです。しかし、家来たちによって彼の希望は打ち砕かれ、彼は気違いのふりをして、かろうじてその場を逃れました。その時に歌ったのがこの詩篇なのです。一体誰がこんな時に神様に感謝を捧げられるでしょうか。惨めで、哀れで、到底、勝利とはいえない状況です。しかし、ダビデはそんな時でも神をほめたたえました。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11
どんな時にも、神様はあなたの味方です。あなたに対する神様のご計画は、いつも平安と将来への希望を与えるものだと、神様ははっきりいわれています。私はいつもこの御言葉を思うときに、驚き、あきれます。どこの神が、こんなねんごろな言葉を誰かにかけますか? どうしてこんな私たちにそんなご計画をお持ちなのでしょう。私たちを神様はどう思っておられるのでしょう。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。申命記7:6〜11
これはイスラエル人への神様の約束ですが、いつも言うように、神の御言葉はそれを自分のものだと思う人のものです。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。マタイ12:11
私は神の聖なる民、宝の民だと信じたらそのとおりになります。神は「誠実な神」です。なんというへりくだった方でしょうか。そしてイエス様ご自身が人の体を持って、その御口で言われています。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16
あなたを選んだ方は、どんなことがあってもあなたを見捨てません。もう、お前には愛想が尽きました、もう知りません。二度と私のところに来ていけません・・・なんてことは、絶対に言わないのです。一度、選んだら、永遠に見放さず、見捨てることはありません。・・・強調するところが良いですね。
だから、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことを感謝しなさい。