メッセージ 2004・ 5・15 小 石 泉
論争のセオリー
愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。
愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。箴言26:4〜5
これは実に面白い言葉ですね。全く反対の言葉ですが決して矛盾していないのです。前者は「どう説明してもわからない人に、どんなに苦労して説明しようとしても無駄ですよ」と言っています。後者は「馬鹿な質問をする人に、相手のレベルに下がって、同じような馬鹿馬鹿しい答えをして見なさい、そうすれば相手も自分の愚かさがわかるでしょう」と言うのです。それぞれの場面で使い分けなさいと言っているのです。
私たちは議論によって真理を追究することは必要です。使徒行伝でも、激しい論争や対立があったと書かれています。
そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。使徒5:2
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。5:7
またカルビンの「キリスト教綱領」を読むと、実に辛らつな言葉で相手を攻撃しています。しかし、それは相手が論争する価値がある場合だけです。全く論争する価値のない相手、あるいは全く立場を異にし、絶対に妥協する余地のない相手と、ただ自分の優位を争うために論争することは控えるべきです。
御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。
ユダ1:9
天使長ミカエルは悪魔との論争を避けていますが、それは当然でしょう。悪魔と論じても全く無駄だからです。悪魔は聖なるもの、正しいことへの感覚が全く失われているか、または完全に逆転しているかですから、数千時間、数万語を使って論じても決して理解することはないでしょう。要するに私たちが論争する場合は相手がそれによって立場を見直したり、悔い改める可能性がある場合だけです。もちろん自分が間違っていることを悟ると言うこともあるでしょうが、常に謙虚で、神の前に真実であるなら、それで十分でしょう。
すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。
Uヨハネ1:9 〜11
相手によっては、私たちは、論争どころか、挨拶することすら禁じられていると言うことは驚くべきことです。これは素晴らしい教えでしょう。
実際、エホバの証人と話すと、実に無駄なことが多いことに気がつかれるでしょう。彼らは論争のマニュアルを教えられています。私たちの質問や反論をほとんど網羅する論争の訓練を受けているからです。ですから彼らが救われるように祈ることは大事ですが、挨拶ぐらいはともかく論争することは無駄です。エホバの証人の創立者であるC.T.ラッセルはフリーメーソンリーと言う団体に所属していたサタニストですから、エホバの証人に対しても究極のところではミカエルの態度が必要になるでしょう。フリーメーソンリーという呪われた集団全てにそれは当てはまります。(注:フリーメーソンとはフリーメーソンリーという団体に属する個人のことです。)
実際、口も利きたくないと言う場合があるものです。愚劣な論争を仕掛ける相手に答えると、同じレベルの愚劣さに下がらなければなりません。私は生理的にこういう相手には嫌悪感を覚え、全く話もしたくなくなるし、それは聖霊の導きである健全さだと思うのです。 私たちは、私たちの主イエス様の態度に学びましょう。
しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。
しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。マタイ27:12、14
沈黙の雄弁と言うべきでしょうか。神の御子はご自分のことを本当に理解しようとする人々には懇切丁寧に、心を注ぎ出して話されました。空の鳥、野の花を通して真理をわかりやすく話されました。しかし、話しても無駄な人々には沈黙されたのです。そう言えば、こうも言っておられますよ。
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。マタイ7:6