2004・5・2      メッセージ        小 石 泉

信仰が見られるだろうか


 4月29日の読売新聞に、ドイツで教会が次々に閉鎖され、取り壊されたり、銀行になったりしていると言う報道がありました。確かに今ヨーロッパではクリスチャンは極端に減少して居ると言うことを聞きます。イエス様は次のように言われました。

「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。ルカ18:8

 特にキリスト教国と言われていたような国々で、驚くべき勢いで不信仰が増加しています。その反対にサタン礼拝や魔術は隆盛しています。悲しむべきことです。

 第六年の六月五日にわたしがわたしの家に座し、ユダの長老たちがわたしの前に座していたとき、主なる神の手がわたしの上に下った。わたしは見ていると、見よ、人のような形があって、その腰とみられる所から下は火のように見え、腰から上は光る青銅のように輝いて見えた。彼は手のようなものを伸べて、わたしの髪の毛をつかんだ。そして霊がわたしを天と地の間に引きあげ、神の幻のうちにわたしをエルサレムに携えて行き、北に向かった内庭の門の入口に至らせた。そこには、ねたみをひき起すねたみの偶像があった。見よ、そこに、わたしがかの平野で見た幻のようなイスラエルの神の栄光があらわれた。
 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。そして彼はわたしを庭の門に行かせた。
 わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。
 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。

 またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」エゼキエル8:1〜18

 今、正にこれと同じことがキリスト教国で起きているのです。
 人の罪には二種類の罪があります。一つは霊的な罪、もう一つは肉的な罪です。肉的な罪は誰でも判りますが、霊的な罪はなかなか判らないものです。そして日本のような偶像信仰の国民が偶像礼拝することと、イスラエルや欧米のような国々が偶像礼拝することとは、その罪の重さは違うと思います。同じ偶像礼拝でも前者は知らないで犯しているのですが。後者は真の神を退けるという過程を経て犯しているのです。
 奇妙なことにカトリックの国々より、プロテスタントの国々の方が、不信仰が急速に拡大しています。ルター、カルビンらが命がけで勝ち取った真理がむざむざと捨てられています。もっともカトリックそのものがかなり偶像礼拝の要素が強いこともあるかもしれません。しかし、私はカトリックが全くキリストの福音を失っているとも思いません。幾つかの経験を通して、カトリックの教職者や信徒の中にたしかに信仰を見てきました。
 ただし、マリヤ崇拝は全く受け入れることは出来ません。マリヤは素晴らしい信仰の持ち主ですが普通の女性です。20世紀にしばしばマリヤが現れて教えたり預言したりしたという報告がなされていますが、(例えばファティマの奇跡)私はマリヤが死後に現れると言うことはありえないと信じています。それはマリヤを騙る悪霊の仕業です。

 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。黙示録3:1〜:3

 「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」なんと現在にふさわしい御言葉でしょうか。気をつけないと私たち自身が「生きているというのは名だけで、実は死んでいる。」かも知れないのです。
 私たちは迫害を恐れますが、実はキリスト教の歴史では迫害の時ほど信仰は燃えるのです。神様は純粋な信仰を保つために迫害もやむなしと思われることがあるようです。中国でも弾圧が減った今の方が、信仰はゆるんできているということです。
 良くリバイバルと言う言葉を聞きますが、私は、今はむしろサバイバルの時だと思います。そしてサバイバルの方が真実で純粋な信仰が守られると信じています。
 日本でも、今はキリスト教式結婚式が盛んですが、だんだん人前結婚式と言う形式が増えています。ある日、突然、キリスト教式が廃れるということも十分にあり得ます。ロシアや東欧諸国ではかなり前には、教会ではなく市役所で市長が司式をしていました。今は逆転していますが、何時また元に戻るかわかりません。

 あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。イザヤ50:10

 神を信じる道が、すべて信号は青ではありません。赤信号もあります。明るいときばかりではなく暗いときもあります。「神様、そんなはずじゃあないでしょう!」と叫びたくなるときもあるでしょう。しかし、そんな時こそ、あなたの信仰は強くされるのです。
 「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」という主の声に「私がいます」と答えられるでしょうか。自信がないですか?

 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ルカ22:32

 信仰も主の祈りによって守られるのです。それを信じることぐらいは出来るでしょう。