2004・4・18   メッセージ          小 石 泉

一つだけ


 最近、息子と部屋を取り替えました。その時、思い切って不要と思われるものを処分しました。すると実に多くのものが不要だったのです。不要の条件を「明日、死ぬかもしれない」と考えると、もっと捨てられたかもしれません。人間は年齢と共に必要なものと不要なものが違ってきます。坂道を登りきり、峠に着き、これからは下り坂だという人間と、まだこれから登るのだという人間では、必要と不必要に違いがあって当然です。

 しかし、イエス様は人間の全てに本当に必要なもの、無くてはならぬものをご存知でした。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」マタイ4:3〜4


 ここで言うパンとは人間に必要な物質的な要素と考えられます。それは食料であり、住居であり、衣服であるかもしれません。面白いと思うのはある人にとっては一個のパンが必要不可欠であり、ある人にとっては高級マンションが必要不可欠なのです。北朝鮮の人の祈りは一椀のご飯であるかもしれませんが、アメリカやヨーロッパの豊かなクリスチャンには一艘のクルーザーかもしれないのです。聖書はそれが不公平だとは言いません。その時代、その国、その地方にいる人にとってパンはさまざまです。
 しかし、どんな人にも平等で不可欠なもの、それは神の言葉なのです。神の言葉は人を生かすいのちの言葉です。しかし、今はこの言葉がないがしろにされ捨てられる時代です。神への恐れは消え、パンだけ、物質だけです。

 こうして人々が神の言葉を捨てたので、神は御言葉を隠されます。
見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。−その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。アモス8:11〜12


 ここに神の言葉が無くなったのではなく「聞くことのききん」とあることに注意してください。これは神の教会が正しく御言葉を伝えない状態です。教会はあるのです、しかし、正しい、本当の御言葉が無くなっているのです。御言葉は曲げられ、耳障りの良い、当たり障りの無い、ご都合主義のメッセージとなってあふれています。御霊の語らせるままの、いのちの言葉は語られないのです。

ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。ルカ10:40 〜42(口語訳)

 この場面に、もし今の私たちがタイムスリップしていたら、何と素晴らしいのでしょうか。そこでは自ら神の言葉と名乗る方が、まじりけのない神の言葉を語られていたのです。今の私たちなら一言も聞き漏らすまいとその場にへばりついていたでしょう。当時の人々のみんながみんなイエス様を神の子とは認めていませんでした。しかし、マリヤはそのことを知っていました。それは無くてはならないものでした。
 ここでマルタとマリヤの違いは明白です。マルタはとても善意の人でした。彼女はイエス様をもてなすことに一心不乱だったのです。だからマリヤの態度が気に入りませんでした。しかし、マリヤは神の子から神の御言葉を直接聞くと言うまれに見るチャンスを逃すことが出来なかったのです。
 ここで私たちは「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」というイエス様の言葉に注目したいのです。私たちは実に多くのものに囲まれ、喜び、わずらわされ、悩み、働きます。家庭、学校、会社、地域社会、時にはレジャー。それらの全ては大切なことでしょう。しかし、イエス様は本当に大切なものは一つだけだと言われます。
 引越しのとき一番厄介だったのは本でした。本は重いし、捨てるのにはかなり迷います。しかし、今回は思い切ってダンボールに入れ、倉庫にしまいました。結局、本当に必要な本はと言えば、聖書だけでした。「一つだけである。」というのは本当だと思いました。