2004・ 4・11   メッセージ    小 石 泉

世の終りまで


しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:16〜20

 世界が急激に混乱に向かっています。私は最近、本を書きました。しかし、残念ながら出版は出来ませんでしたが、第三次世界大戦を予告する内容です。それはいくつものソースから伝えられた情報を基にしています。たしかにおそるべきことが始まろうとしています。
 こんな時、イエス様の御言葉の確かさが心に染みます。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イエス様の別名をインマヌエルと言いますが、その意味は「主がともに居ます」です。だから上の御言葉は別に不思議でもなんでもないのですが、こういう時期になると改めて、本当であってほしいと思うのです。そして、もっと現実にそのことを感じたいと思うのは私だけではないでしょう。イエス様はこうも言われています。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。マタイ18:20

私たちはいつもこの御言葉で集会を始めてきました。でも本当に主がその中にいる集会でしょうか。そう感じているでしょうか。

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。ヤコブ4:7〜8

 「神に近づきなさい、そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」主が共に居る、神が近づく。これらの言葉から受ける印象は、いかにも親しげな神の臨在です。しかし、現実には、神は遠く、キリストはかすかではないでしょうか。 私たちは改めて、信仰に立たなければなりません。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1

 この後、ヘブル書11章は「信仰によって」という言葉を20回も繰り返します。そして27節では「信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」と言っています。「見えない方を見ているように」それが信仰なのです。
 キリスト教会では、この頃、非常に手軽に神に触れることを求める傾向があります。見たい、聞きたい、触りたい、経験したい、恵まれたい、興奮したい、味わいたい。しかし、信仰の原則は「見えないものを見る」ということです。

 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:24〜29

 トマスは「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言っていました。何と科学的な態度でしょうか。そこで、イエス様はトマスに現れて「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」と言われました。トマスは恥じ入り「私の主。私の神。」と叫びます。それに対してイエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。他人事ではありませんよ。私たちもいつでもそうではありませんか。
 時は迫り、時代は急を告げています。この時こそ、主の御言葉に堅く立たなければなりません。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」といわれた主は今日も、今も、共に居てくださるのです。そしてこれから何が起ころうと、天地がひっくり返ろうとも、御言葉は失われないのです。信仰によって主を見続けましょう。