2004・ 4・4 メッセージ 小 石 泉
神の実在
先日、ある人から“悟りを開いた数少ない”禅僧の書いているインターネットのサイトと言うのが紹介されて、牧師としてどう思うか教えてほしいというメールが届きました。その禅僧はキリスト教を辛らつに批判していると言うことです。私はこんな返事を書きました。「申し訳ありませんが全く読む気がしません。というのは、あなたにお父さんが居るか、または居たか議論しましょうと言うのと同じだからです。神の実在はそれ以上に事実ですから、私には議論すること自体ナンセンスです。」
私は神の存在を「信じません」。それはあまりにも馬鹿げていますし、失礼です。それは「私は私の父が居たと信じます」と言うのと同じです。私の場合、父はすでに死んでいますから過去形になりますが、まだ生存している場合は「私は私の父が居ると信じます」ということになります。誰も「私は空気のあることを信じます」と言ってから呼吸をする人は居ないでしょう。また「明日、太陽が出てくると信じます」と言う人も居ないのです。その空気や太陽でさえ神が創造されなければ存在しなかったのです。
クリスチャンが「神を信じます」と言う場合、「神に信頼しています」と言う意味であって、存在を信じますと言っているのではないのです。聖書は神の存在を証明していません。そんなことをする必要性がないのです。それより神とはどういうお方かを証明しています。
聖書の最初の書の創世記は「神とは何か」とか「何故、神は存在するか」などと始まっていません。
はじめに神は天と地とを創造された。1:1
とあって、神が活動されることから始まっています。
神のお名前はヤハウエ(エヒエ・アシエ・エヒエ)です。これはエホバと言われてきましたが、それは全く間違った読み方です。もともと聖書は写本して受け継がれてきました。そのために母音を省いて子音だけで書かれました。神の名はYHWHと書かれました。ところがモーセの十戒に「神の名をみだりに唱えてはならない」とあるために、聖書を朗読する場合この文字のところを飛ばして読んだのです。しかし、それではまずいと言うわけでここに「主」をあらわすアドナイADONAIの子音を当てはめて呼んだといわれています。YAHOWAHIとなり、それがエホバの語源となったと言われていますが本当はどうなのか分かりません。
このヤハウエという言葉の意味は「在りて有るもの」です。英語では I am that I am.と表記されます。「私は在る」と言う意味です。読みようによっては「私は私だ」となります。
私は英語のBe動詞は面白いものだと思います。日本語では「です」とか「ある」とか言う言葉になりますが、英語の場合、もっと深い意味、存在とか実質とかを表す言葉です。
欧米人が「神を信じない」と言う場合、聖書の神を受け入れないと言う意味であって、神と言う存在を否定しているのではありませんでした。「でした」と言うのは、最近は欧米人でも日本人のようにその存在そのものを否定する人が増えてきているからです。しかし、日本の人々が「神を信じない」と言う場合、これは本当に居ないと思っているのです。欧米では無神論というのは成り立たたないのではないかと思います。むしろ反神論というべきです。
かつて「神は死んだ」と言い、超人思想を唱えたニーチェは、晩年、超人ならぬ狂人として死にました。また、無神論を熱心に唱えたヴォルテールは、その死の床で「ああ、私は間違っていた。キリストよ、私を救え、私の足は地獄の火で焼かれている、ああ、もう遅い、私はそこに行くのだ!」と泣き叫びながら死んでいったと言われています。その臨終の床に立ち会った看護師はその後、臨終間近の患者に「あなたは無神論者ですか」と聞いて、そうだと知るとなるべく断ったそうです。それほどヴォルテールの死は恐ろしいものだったのです。彼は「私の生きている間に聖書は無くなるだろう」と言っていましたが、彼の死後、彼の家はイギリス聖書協会の倉庫になったと言うのは有名な話です。
1933年2月24日に国際連盟を脱退し、国際連盟の議場を去った日本の松岡全権大使は、その前にドイツの大使が演説の中で「わがドイツは神以外の何ものをも恐れないのです」と言って満場の拍手を浴びた後に演説し「わが日本は神をも恐れないのです」とやって会場を大いに白けさせたと言います。その頃は、ヨーロッパでは「神をも恐れない」とは自分が馬鹿だと言っているのと同じでした。今は違いますがね。
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。詩篇14:1
神は居ないという言葉は自分自身の存在の根底を否定するものです。
どんな人でも必ず死にます。その時、人は無くなってしまうのでしょうか。日本の最高裁判所の判事を勤めた方が死の直前に書いた本の題名は「人は死んだらごみになる」でした。しかし百歩譲って、どんな人でも死後、魂が無くなってしまうのか、それとも魂は不滅なのかは知らないのです。それはどう考えてもFifty、 Fiftyです。見て来た人はいないのですから、無いとも言えず、あるとも言えません。そして50%の確率は決して小さいとは言えません。明日、雨の降る確率は50%ですという天気予報を聞いたら、奥さんたちは洗濯するのに躊躇するでしょう。まして人生が50%の確率で続きがあるかもしれないという重大な話はどうでもいいことではありません。賢明な人ならあるという確率に賭けるはずです。無いということに賭けるのは無謀といわなければなりません。そうではありませんか?
私はあるという確率に賭けました。そして聖書の言葉に永遠の居所を賭けました。